みたぬメモ

地味にメモ

旅行とパターン認識の話

こういった理由で昨日は唐突ながら山梨に行ってきた。山梨は小学生の頃に八ヶ岳に行ったっきりなので実に10年以上ぶりかもしれない。

TLの皆がしばしばチェックインしていて気になっていた談合坂SAにようやく行けて、ホッコリした。

全体的に味が濃厚でおいしかった。

 

山があっても山梨県

それはそれとして山梨に行ってきたわけだけど、「人は何を以って山梨に行ってきたと確信できるのだろうか」と道すがらに考えていた。

今回の旅は友人の運転する車だったので、自らは特に細かいルートや時間を調べる必要もなく、本場の桔梗信玄餅を食べるという欲求が満たされたらよかったものだった。だから今回の旅は極端な話、山梨以外のところに連れて行かれて「ここが山梨ですよ!」と案内されて、桔梗信玄餅っぽく似せたものを食べさせられたら、私の脳みそは山梨と認識する可能性だってありうる。そのため、「何を以って私は山梨県にいるという確信を持てるのか?」という疑問が湧いた。

 

パターン認識による理解とそこからの外れ値を得る

人間はモノを認識する過程として「結局、どのクラスに分類されるかという識別問題に帰着することができる」という考え方がある。これがニューラルネットワークSVMの研究の基礎構造である。

だから「山梨にいる」という確信を持つためには、今まで自分が持っているクラス分類の値から、外れるような体験をしないといけないのではないだろうか。 

私の場合は生活圏を長年東京に持っているので、ほとんどの行動を東京で過ごした経験に基づく分類ができてしまっている。(老いたんだろうなあ……。) 例えば先日、キングダムハーツオーケストラコンサートのために、大阪に初めて行った。道頓堀の商店街を歩いていたときは、「ここは雑貨屋や衣料店が多いから、東京の吉祥寺に雰囲気が似ている」、「ここはなんとなく西新宿っぽい」などと脳内でパターン認識をしていた。ちょっと話は逸れるが、人間がパターン認識してしまう一つの理由は、防衛本能に基づくものだろうと妄想している。人間はあまりに未知数な環境に置かれると、たとえそこが危険性を孕んでいない場所だとしても、脳内で処理がしきれずに「よくわからない、こわい!」というものを感じやすいのではないだろうか。入力も未知数なら、出力も未知数なのだ。だからよく知らない場所を歩いているときに、飛び道具が降ってくるかもしれないという妄想を人間がしてしまうのは不思議ではない(?)。 だから、ある程度年齢を重ねた人間は「ここはどこどこに似ている」、「これは〜〜に属しているから〜〜というルールを持っているに違いない」という脳内自動処理をして、刺激的な体験を自分の理解の範疇に収め、ある程度の出力を予想しているのだと私は考えている。

話を戻すと、大阪の旅は道頓堀のグリコ看板が見えたときにようやく「なるほど、ここは大阪なのだ。」という実感が湧いた。グリコ看板という特徴的なオブジェは、私の知識や記憶の限りだと大阪にしかなかった。そして私における東京の経験ベースでは、そのオブジェがクラス分類できなかったのである。だからそのときに、「ここは大阪だ」という認識ができたのだと思う。

そうなると、「ここが山梨である」という確信を得るためには、事前情報と特徴的な外れ値を持たないといけないのだなあ、などと難しいことを考えていた。

山梨を例にとると、甲州ワインを飲む、温泉に入る、桃を食べるといった特産的な事前情報に基づく特徴的(外れ値的)な経験をしてようやく、「山梨に来た」という実感を得るのだろう。そしてそうやってクラス分類を増やしていった人ほど、あらゆる状況に置かれても平然としていられるのかもしれない。

 

「その場所に着いた」と確信を得られるような"事前情報"を得るためには、Twitterでは難しくて、テレビや本の媒体の方が説得力があるとも思ったのは、また別エントリで考える。