ゴディバのドリンクがどうしてもどうしても飲みたかった
#この日記はポエムです。
11/13は自分の誕生日です。
しかし近年、誕生日はわりといいことがなかった。他の人から見るとそこそこ充実していた生活に見えていたのかもしれないし、周りの人も私が快適な気持ちで過ごせるように振舞ってくれていたとも思うんだけど、それでも主観ではいいことがあまりなかったように思えた。
去年も誕生日前日に↓の日記を書いていたのを思い出して読み返したんだけど、「残念!きみはその誕生日に他人から八つ当たりされた上にマウントを取られて夜にめちゃくちゃキレながら泣いてます!!!」って教えてあげたい。
(実を言うと去年の誕生日は、キングダムハーツのコラボをしていたアルトニアに行けたんですが、その喜びを超えるレベルのメチャギレ事案があったという言い方が適切です。他人にしてもらったことよりも怒りに目を向くとは、ひどい奴である。)
よりによって誕生日なのに。むしろ誕生日だからなんだろうか。
誕生日だからって「いいこと起きないかな〜」ってわずかながらでも期待値を上げたりだとか、「誕生日だし特別なことをしよう!」ということを企むのはいい加減やめどきなんだろう。
誕生日云々でいいことが起きるとは思わない、これに今年は徹しよう。そうしよう。
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そんなことを昨日の夜に考えていたら、今朝は寝坊した。
でも朝ごはんを食べる時間も化粧をする時間も、朝ドラを見る余裕もある。強いて言えば日課の朝ジョギングができない程度の寝坊である。
これが小学生の頃だったら「誕生日の日だから早起きしないと!」とよくわからない義務感に駆られていたのに、そもそも誕生日であることも忘れている目覚めである。
昔だったら「クソォやはり俺は誕生日に幸せになれない人生なのか!?諦めんぞ!!!諦めんぞ!!!」と、思うのかもしれない。
しかし、そこまでの激しい感情に揺さぶられることもない。今日の自分は豪華な食事もケーキも何もないのである。特に約束もなにも取り付けていないし、サプライズを起きる環境でないことも知っている。
「っていうか本当、誕生日だからって特別にいいことが起きるとは思わないでおこう」、ようやくこの境地に至ってきた。人生n年目にして、いい加減現実が見えてきた。
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やや寝坊したので、やはりややバタバタしながら朝の日課で植物に水をやる。
去年買ったミニバラもいい感じに咲いている。しかも、このまえ植えたチューリップに芽が出てきた。
しかし感慨も湧かない。
セナという黄色のミニバラは綺麗に育って咲いているけど、ピンクのプリンセスチュチュというバラはとっくの昔に枯れたのだ。更に言えばこのまえ鉢に差し替えたユウナはまだうんともすんとも言っていない。誕生日だからといって、いいところばかりにフォーカスするのはやめよう。私が枯らしたプリンセスチュチュの球根は戻らないのだから。
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10年以上付き合いのある親友からLINEがきていた。めちゃかわいいポケモンスタンプと共に。
正直なところを書くと、自分はその親友の誕生日当日を忘れていて、その少し後にamazon経由で良さそうなものを見繕ってプレゼントした。そんな薄情な友人に対して、親友は丁寧に今年もLINEをくれるのである。本当にいいやつである。
そんな親友に「よければ今夜食事に付き合ってくれないか」などと誘おうと思ったけど、それは甘えである。誕生日だからといって他人に甘えていい免罪符にはならない。そして自分の性格を考えると、「祝ってくれよ〜w」と軽口を叩いてしまう。そういう甘えからはいい加減卒業しよう。いい歳なのである。
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今日は、諸々の進捗について聞かれてレビューをされた。
ああだこうだととても自然に、指摘というよりも要望に近い意見の山が降ってきて、自分のやるべきことが増える。
昔だったら「そういうの事前にまとめて言ってくれないかな」と思っていたんだろうけど、「まあ実際のブツができてみないと、指摘するのも難しいもんなあ」という心構えに切り替わっている。
余裕とかではない。そういうことは往往にして起きやすいという、対人経験値が溜まってきただけであって、内心は「期限までに終わるのかね、これ。」と冷や汗を掻いている。誕生日だからって徳政令が起きるわけではない。他の人にとっては、今日は特別でもなんでもないただの1日である。
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さて。
ここまでなるべくクールに過ごしたけど、実はめちゃくちゃ飲みたいと思っていたドリンクがあった。ゴディバのドリンクである。私はチョコレートがかなり好きで、幼少期から、そこらへんの果物とチョコレートを選べと言われたら迷わずチョコレートを選んでいた。
すごく変な話、スタバや星野珈琲といったカフェにはそこそこに飲みに行くのだが、なぜか本当に飲みたいと思っているゴディバだけはほとんど手を出せずにいた。
なぜだろう。商品によってはスタバより安いドリンクもあるのに、ゴディバだけは私にとって深窓の令嬢のごとく、軽く手を出せるものではない。スタバはそこそこ通ったけれど、ゴディバだけは覚えている。過去に2回しか行っていない。
飲みたい。飲めばいいじゃんと思うかもしれない。
しかし、自分は一応ダイエット中なのである。飲みたいものに躊躇なく手を出していたら、いけないのである。もう大人なんだから、節操を覚えなければいけない。
そして、何よりも一つの危機感も抱いていた。
ゴディバは、特別な飲み物である。けれど、自分はゴディバを飲むにふさわしいことをした人間だろうか。自問自答する。別にしていない。びっくりするぐらい何もしていない。
「じゃあ特別にいいことが起こった日に飲めばいいじゃん」などと考えて、ゴディバを横目に通り過ぎる毎日。そこそこの月日が経っていた。飲めていない。
飲みたい。誕生日だから許されるんじゃないだろうか。しかし、誕生日とは、本当に特別にいいことが起こっている日なのだろうか?単に生まれただけである。
私はそれを飲むに値するほど、すごくよいことをした1日だっただろうか。
あるいは今まで、ゴディバを飲むに値するほど誠実で、周りから期待されること以上に責任を伴った行動を起こせていただろうか。
……否。
どちらかといえば自分は横暴なことをしてきた方だし、もっといえば、他人を幸せにした記憶よりも不快にさせてしまった記憶の方が多い。
ここでゴディバのドリンクを飲もうものなら、明日からひどいことが起きるかもしれない。誕生日だからと行って、過剰なことをしてはいけないのである。今日という1日を、特別なものにしすぎてはいけないのである。
誕生日だからといって、過度な期待をしてはいけない。
今日は贅沢をしないのである。
言われたことをきっちりやるのである。
寄り道などせず、余計な買い物もせず、まっすぐ帰るのである。
飲みたい。
そもそも財布にお金もあるし、誰かにご馳走されるわけでもない。
ゴディバがもしもまずかったとして、私はゴディバに怒鳴り散らすだろうか。否、そんなことはありえない。
自分の力でゴディバを飲んで、ゴディバがまずかったとして、ゴディバで太ったとしても、それはすべて自分の選択の結果なのである。
いや、しかし、人生が。カロリーが。今日という日は。
いろいろな考えが駆け巡る。
誕生日ぐらい、自分のやれることをやれる日にするぐらい、いいんじゃない?
私は他人を幸せにはしてこなかったことの方が多い。
だからというわけでもないが、他人に幸せにしてもらおうという考えを捨てるのは、限りなく正しいのである。誰がなんと言おうが、これはもう自分にとっての人生哲学だ。
他人に幸せにしてもらえなかったからと言って他人に当たり散らすのではなく、自分で自分を幸せにするのだ。それが、正しい在り方なのだ。
帰り道。店に足が向かった。
よくわからないながら、限定商品を頼んだ。
今日はやや冷える日だったので、温かい方にする。
人混みが多いので、なるべく端に避けて飲む。
一口。うまい。あまい。
ゴディバは裏切らなかったし、自分の選択も満足がいった。
帰り道、さらに花でも買おうかと思ったけど、それもまた自分の誕生日を特別視しそうなイベントになりえそうなので、やめた。
とっとと帰って、冷凍庫にあった味の素の餃子を焼く。生姜入りでうまい。
変哲も無いけどおいしい餃子を食べながら考える。
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まあ、こんなものかもしれない。誕生日なぞ、特別視するイベントではないし、特別視してもいけない。
人と特に衝突もせず、ゴディバを飲めて、餃子を食べられた、そんな1日なのである。
それでいい。それぐらいがちょうどいい。
去年と比べると、愛猫もいなくなった。自然消滅していった友人もそこそこにいる。
二度と会わないんだろうな〜〜と予感できる人も何人かできた。
家族からも、何も連絡はない。
でもいい。ゴディバを飲んだ。
今年は無事に過ごせた。じゅうぶんである。
とかなんとか考えて、今年の11/13も終わるなあとしみじみしていたんですけど、
誕生日プレゼントに花束がきました。
ちょっとうるっとしたところで、今年の誕生日も締めくくっていきます。
長文ポエム読んでくれてありがと〜〜〜