みたぬメモ

地味にメモ

8年が経って

今日で東日本大震災から8年が経ちました。

 

自分は東京にずっと住んでいるので、いわゆる「エア被災」程度でしかありませんが、それでも地震はやっぱり凄かったし、その後の生活も影響を受けたことを覚えています。

しかし8年も経ったからか記憶もいくつか風化してしまっていて、当時を振り替えるニュースを見てもどこか遠い世界の話のように思えてしまっている自分もいます。

これは良くないなと思い、特に誰の役に立つとかではないんですけど、改めて当時のことを思い出しつつ書こうと思います。


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そのとき自分は家でずっと、3月3日に発売されたディシディアデュオデシムファイナルファンタジーというPSPのゲームをしていました。(春休みモードでしたね……)

やたらと飼い猫がまとわりついていて、うーんうるさいなーと思ったときに、大きい地震が起きました。

 

横揺れも長く激しく、部屋にある本棚がとにかくバッサバサと本を落として揺れて、猫もどこかに消えました。

自分は慌てて部屋を出て、母親に「あなたも食器棚を抑えなさい」と言われ、とにかく抑えました。知識では「玄関の扉を開けておく」ということは知っていたんですが、飼い猫が脱走したら…‥とか、そもそも家の扉が開かなくなるかもしれないレベルの大きい地震になるかどうかも考えられず、とにかく目の前のことに対処するしかなかったのだと思います。

もともと車酔いしやすいタチの自分が、そろそろ吐くかもしれない、というぐらいで収まります。ああすごく大きかった、震源地はどこだ、とテレビをつけました。

 

そしてニュースを観て、「これはとんでもないことが起こる」と焦り始めます。

そういえば家には全然備蓄のものがないね、と母が気づいたので、自分が慌てて買いに行くことにしました。母はいなくなった猫を探すのと掃除をすることにしました。

 

最初に自分は駅前の西友に行きましたが、店はシャッターが降りていて、張り紙がありました。「棚が倒れて危険なので、一時閉店しています。復旧の見込みはまだ立っていません」といったものだったと思います。

なんていうことだ、西友が閉まっているとなると、この辺りで水が安くたくさん買える場所ってどこかな。とちょっと焦った記憶があります。周りの人も同様に焦っていました。

そこで駅近のマルエツに行ってみたり、当時は駅近に存在していたクリエイトというドラッグストアに行ってみました。とにかくたくさんの人が来ていました。すでに点数制限は起きていたものの、水のペットボトルや電池は軒並み売り切れ。値段関係なく、売り切れでした。仕方なく残っていたお茶のペットボトル2Lを2本買いました。

店員さんたちも早く家に帰りたかっただろうに、かなり気丈に対応してくれていてありがたかったです。

 

そういえば、かなたさんのメモを読んでいて思い出したんですけど

kanata-john.hatenablog.jp

このときは自分もガラケーでした。おかげで充電の持ちがよかったです。(そういうことも忘れていた自分にびっくりです)

モバイルのyahooの震災情報は繋がりにくかったんですけど、当時からすでにTwitterをやっていたので、「あの店はもう今日は閉めた」といった情報に触れることができて、やっぱりありがたかった記憶があります。

というのも当時、自分の周りはTwitterよりもmixiが主体だったんですが、mixiはどちらかといえば情報速度が遅いことと、ローカルに即した情報はあまり投稿されていなかったこと(例えば近所の店の情報がまさにそうでした)、一方でTwitterは情報速度がとにかく早く、ローカルに即した情報も検索すれば出てくるところに利点を感じていました。

もちろんデマも多かったんですが、この当時は今ほどデマも少なかった気がします。

 

家に帰ると、そのときには津波が……というニュースも知りました。

 

そして都内は電車も動いておらず、兄と父は大丈夫だろうか。と思いました。

夕方ぐらいになって、同期とメールをして(まだLINEをやっていませんでした)「これからどうなるんだろう」「今日はもう移動できないよね」といったやりとりをした記憶があります。

携帯のメールや電話は繋がりにくかったんですが、PCメールで色々とやりとりできたことが、すごく助かった記憶があります。

部屋のヒーターをつけるのは転倒したときちょっと怖いね、ということで消灯にしていたんですが家の中がすごく寒くて、PCの熱で暖をとったような気がします。

 

あといなくなった猫ですが、地震が起きたときに慌ててたまたま開いていた天袋に入っていたようで、夜になってようやく出て来ました。(それまで母は、猫はもしかして外に出たんじゃないかとすごく動揺していました。猫はずっと家で飼っていたので、外に出るとまず戻ってこられないと不安に思っていたからです)

あまりにたくさんの本が落ちたために、猫はすごくびっくりして、天袋に入れていたダンボール類の奥でずっと震えていたようです。自分がもっと日頃から部屋の掃除をして、さらに転倒防止対策をしていれば猫を怯えさせることもなかったんじゃないかと思うと、そこはずっと後悔しています。猫の目はずっとまん丸で、相当怖かったんだと思いました。

(ちなみにその子は一年後に腎臓病で亡くなりました。母が「地震の時はごめんね」「骨壷を持ってはいたいけど、地震で無くしちゃったりしたら落ち着かないでしょう。離れるのは悲しいけど、共同墓地でちゃんと埋葬してもらいましょう」と、そういう意思決定に影響が起きました)

 

テレビでは帰宅難民になった人たちが映し出されていて、甲州街道をハイヒールで歩く人が本当に辛そうだと思いました。兄もいつもなら20時ごろには帰るのが、日が変わるぐらいになって帰って来た記憶があります。やはり大きい道路沿いに帰って来た、と言っていました。

 

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それからは、日常の品が不足したり、計画停電が実施されたりといったことが起きました。(ちなみに印象に残っているのは、国立大後期試験が各地実施できず、センター試験の結果のみで合否が決まったニュースです。)

あと四国に住んでいる親戚が、「東京だと手に入らないだろうから」と、電池や水、すぐに食べられる非常食の類をたくさん送ってくれたりと、助かった記憶があります。

母も心配性になり、「家を出るときは、非常食を持っていなさい」と、お歳暮でよく見る羊羹を一つ、ずっと持たされていました。

あとすぐに使える現金やテレホンカードもちゃんと持っておかないとな、と、この当時はカバンの中に色々と入れていた気がします。

 

情報の話でいうと、身近なことでは「ガラケー用のモバイルバッテリーを買いに行こうかな」とmixiに書いたら、地元の幼馴染に「もうどこも売り切れだよ」と突っ込まれたこととか、「メールだけだともし繋がらなかったときが怖いから、Twitterでも繋がらない?」と友達に提案されて、相互フォローになったりだとか(確か当時mixiは常時ログインができず一度ログイン認証しないといけなかったことと、さらにmixiはあくまで日記サービスが主流で最新情報を投稿しにくい文化があったので、使いにくかったのです)がありました。

身近でない情報の話でいうと、まとめサイトニュー速をずっと眺めていたことで、テレビよりも早く全国の状況を知ることができ、気晴らしにもできたことと、Twitterではぼちぼちデマが見られ、それが拡散されてしまったり、不謹慎騒動が起きていくのを目の当たりにしました。

 

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8年も経って、細かいことはそれなりに忘れているんですけど、他の人たちが日記に書いてくれているおかげで「そういえば自分もこんなことをしていた」ということを思い出す手がかりになりました。

 

まとめは、ほぼほぼかなたさんのメモの受け売りですが、

kanata-john.hatenablog.jp

人によっては忘れておいた方がいいものもあるんだと思いますが、いくつかは忘れないようにして今後の生活に活かしていくのが、生きていく人間の仕事なんだろうなと、打っていて考えていました。