みたぬメモ

地味にメモ

もう少し嫌いなものを語ってもいいと思うんだよね

タイトル通り。

世間はとみに「嫌いなものより好きなものを語ろう」という風潮が強い。確かに、好きなものを語っている人は非常に好ましいし、その人のもとに自然と好きなものが集まっていると思う。

私の母もだいぶ昔に「"嫌い"という言葉は強いので、"好きじゃない"ぐらいにしておきなさい」というアドバイスをくれたことがある。今も昔も、嫌いなものを語るということはあまり歓迎されない文化なのだろう。

けど私は、逆に嫌いなものは語ったほうがいいと思っている。理由は3つ。

 

まずは"嫌いな人やものを語ることで、それが近づかなくなる"

当然ながら私にも嫌いな人がいる。なんとなく嫌だなあレベルから、もう私の人生に関わらないでくれレベルの人がそこそこいる。

そこで私は「以前にこういうことが起きて、そのときこういう気持ちを持ったので、こういうことをする人は嫌いだ」と常日頃から言うことで、その人や関係者が近寄ってくることが減っていると体感している。これによって人間関係は萎んでいるだろうけど、嫌いなことや人が入ってこない平穏状態が保てるので、全てが悪くはないと思っている。(バランスは大事だけど)

 

2つめに、"自分の意識を変えるきっかけになる"である。

私の好きな人たちが嫌いなモノや人について語ってくれるのを聞いているとき、「そういうことをしたら嫌われるんだな」, 「こういうことを嫌がる人がいるのだな」という、日常の至りを得られると思っている。ここまでで超偉そうに書いていますが、私もたいがい無神経なところが多いので、好きな人たちとなるべく長く付き合うためには、嫌いだとか怒りといった閾値を把握しておけるのはありがたいと思う。(「それぐらい言わなくても憶測して先回りして動けよ」と言いたくなる気持ちもわかるけど、それこそ他人の理解力や行動力に依存しすぎだったと最近とみに内省している。他人には言わないけど。(明らかに常軌を逸脱したものはまた例外とするとして。))

 

最後に、"自分の感情を把握しやすくなる"である。

最初に戻るけど、好きなモノは流暢に語れるのに、嫌いなモノは歓迎されない文化も影響しているのか、自然発生した嫌悪感を相手に論理的に説明しないために、そこでコミュニケーションのコンフリクトが起きていると思う。(語彙力の問題で"正しく説明できない"というのもあるだろうけど) "お茶を濁す"という文化も、相手の気持ちを慮る意味では素晴らしいと思うけど、自分が失う感情も大きいと思う。齟齬のないコミュニケーションを行う上で、自分の感情を把握するためにも、常日頃からネガティブ感情も相手に伝わるように言語化しておく習慣があるといいと思っている。

 

あと最終的なまとめとしては嫌いなモノや人を語ることで、その人が何を大事にしているかが見えてくるので、そういう側面でも、もっと嫌いなモノや人をもっとフラットに語れるといいんじゃないかと思った。結局それが相互理解に繋がっているとしみじみ考えている。

まあ、なかなか難しいんだろうなあ。