みたぬメモ

地味にメモ

母校が卒業後に学科改組をしていた結果、資格取得に影響を食らった話

※こちらのブログを書いているのは2023年1月なので、この時点での法律や規則の話に基づいて書いています。つまり2030年とかに読みにきていただいても参考にならないところも出るかもしれませんが、その点ご了承ください。あと今後同じように科目等履修を利用して教員免許を取得したい人のためになるべく汎用的に書きますが、当然全部は参考にはならないと思いますのでその点もご了承ください。

このエントリは簡単に言えば『情報の教員免許取得をしようとしたところ、母校の電気通信大学の卒業後、学科改組をしていた影響を喰らって大変困った』という話です。

 

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最近SWEのキャリアについて無性に不安に思うところがあり、いずれは所持している数学教員免許を活かして、教員になるのもいいかもしれないと漠然と考えていました。

ただし現実問題、教員としての実務経験のない人間(かつそこそこの年齢を想定)がすぐに雇われるか?ということを考えた時、それはいささか非現実に思えました。

体感ですが数学科教員は数が多いでしょうし、仮に実務経験なしの歳を重ねた人間と若い人間が同時に来たなら後者を採るだろうと思いました。

なら今後も需要が高まる情報科教員免許を取るのはどうだろうか。教員としての実務経験がなくとも、SWEの経験がむしろプラスに活きるかもしれないと思い至り、取得に向けて調べることにしました。

 

1. どうやって免許を取得するか

通常、教員免許の取得をするには以下のルートをたどる必要があります。

  1.  教職課程のある大学に入学する
  2.  教育に関する科目や教科に関する科目(後述)を履修する
  3.  教育実習に行く
  4.  大学卒業と同時に取得する(授与される)

しかし私がまたどこかの大学に再入学をして免許を取得するのは、費用や時間面において現実的ではありません。

そこで最初に思い出したのが、むかし教育実習に行ったときの母校(都立高校)で、情報の先生との雑談です。「先生はどうして高校の情報科教員になったんですか? もともとPCに興味があったんですか?」と尋ねたことがありました。

その先生の回答は「私はもともと小学校の教員だったんだけど、歳をとったら小学生を教えるのがしんどくて。現役教員だと、東京都の教育委員会が夏休みに開講している講習を受ければ、他免許を取れる制度があるんです。それで高校の情報の免許を取りました。現役教員じゃなくても科目等履修ってあるじゃないですか、アレで教科に関する必要単位を揃えたら他免許を取れますよ」というものでした。先生、ぶっちゃけすぎる。

ただその先生から『教員免許を持ってさえいれば、他の科目/校種免許を取ることは4年制大学に入学して必要科目を履修する通常ルートより、単位数を減らして取得できる』と教われたことはナイスでした。

 

科目等履修を利用して情報の教員免許を取得しよう、そうしよう。

母校の電気通信大学では、数学/理科/情報の免許を取ることができます。つまり、情報科の教員免許を取るための、文科省から認定された科目を開講しているということです。

幸いにも私は母校のある調布市内に住んでおり、通学のしやすさはもちろん、学内の空気にも慣れ親しんでいること、さらに『情報』に関する科目を勉強するにはうってつけの大学であることは我が身を持って知っており、何より自分自身が母校で学び直したいと思っていました。

過去と今の自分の成長度合いを比較したい。あの頃よりかはまともに勉強できるだろうか。科目等履修で友達100人できるかな

 

ただし、次々と大きな壁にぶつかります。

 

2.  科目等履修で教員免許を取得することについて

教員免許を取るには、通常は大きく分けて2種類の科目を(必要単位数を揃えて)履修し、教育実習に行く必要があります。

2種類の科目のうち一つは、教育に関する科目です。日本の学校教育は明治時代からどのように変遷してきたのかといった歴史や、子供は年齢に応じてどのような精神の発達を遂げるのかといったことを学ぶ科目を取る必要があります。

私はすでに数学科教員免許を取っているので、新たな教員免許取得に際しては、これらの履修を除外できます。

 

もう一つは、教科に関する科目です。

数学であれば応用幾何学微分積分といった、大学レベルで学ぶ数学を履修する必要があります。

情報科教員を取得する上で、私は後者の教科に関する科目が足りていないことが自明です。(もし取れていれば、卒業時に2科目同時申請できるため)

 

これが仮に文系学部出身者ならゼロからの積み上げでしょうが、幸いなことに私が卒業した大学は『電気通信大学』です。

母校は教員を輩出するというよりかはエンジニアを輩出することを目的とした大学なので、必修としてコンピュータサイエンスに関連する科目も履修しています。

すなわち『情報科教員』免許を取るための教科に関する科目のいくつかはすでに履修済みである可能性が高いと私は考えました。

その状態でスタートできるならば、科目等履修で単位を揃える際に、費用面でも時間面でも負担はだいぶ減らせるのではなかろうかと画策します。

 

3. 電通大での科目等履修について

科目等履修(+の申し込み)について知るため、電通大で科目等履修を経験した後輩(電通大卒)に連絡をとってみました。

「願書とか何書いた? 申請とかどんな感じだった? どんな科目をとってどんな感じだった?」という具合です。

後輩は忙しいながらも快く相談に乗ってくれ、「願書はそんなに見られていない気がします。講義も普通に受けられました。科目等履修生だからって変に除外されるとか試験で優遇されることもないです」といったことを教えてくれました。

さらに「ただ、先輩はもうすでに教員免許を持っているなら、放送大学でも足りませんか? 電通大は科目等履修の費用が高いので、他も調べた方がいいです。僕は入学料と履修したい単位の合計で、一気に30万ぐらい振り込みました」という知見をもらいます。

個人的にはせいぜい8~10単位ぐらいが必要で費用としては10万ぐらいじゃないかと思っていたため、30万と聞くとさすがにドキッとしました。

ちなみに電通大1単位あたり14,800円です。1科目ではありません

例えば『情報科教育法1』という科目は2単位ですので、14,800*2=29,600円かかります。

「まずは必要科目および単位数を把握した上で、科目等履修をどの大学で行うのかを考えた方がいい」ということに(実に当たり前のことですが)気づきました。

また、電気通信大学の科目等履修のページには、演習や実験科目が履修できないことが書き添えられており、そのことについても若干不安に感じておりました。

 

それならば電通大で履修した科目に加えて、放送大学学芸大学で開講している科目を履修したらいいのではないか。

それに放送大学を中心に履修すれば、通学の手間も費用面の負担も減るしよくないだろうか?と考えます。ただ後述しますが、これにはちょっと問題が発生します。

(ちなみに放送大学では教員免許が取れる!という触れ込みを見ますが、放送大学では教育に関する科目と教科に関する科目を履修できても、教育実習に行くことができないため、放送大学単体だけでは教員免許が取得できません。)

 

4. 必要単位数の確認

東京都に在住、もしくは都内の学校に勤務している人の場合、東京都教育委員会に免許を申請することになります。

普通免許の申請方法 ―免許取得の根拠法令から探す―|教員免許案内|東京都教育委員会ホームページ

私も東京都教育委員会に問い合わせメールを送りました。

『中高の数学科教員免許を持っています。(中略)科目等履修を利用することで新たに情報の免許を取得したいので、必要な単位数を教えてください。』といった内容です。

 

結果、

 1. すでに免許を持っているので、『免許法別表第4表』での『情報』を適用するのが良いと思われます。

   中学校・高等学校の教員免許を有し、他教科の中学校・高等学校の教員免許を取得する場合(別表第4による申請)|教員免許案内|東京都教育委員会ホームページ

 

 2. 実際に必要な科目名については、履修する予定の各大学に確かめてください。

 3. 履修済みの科目が使えるかどうかは、母校に問い合わせてください。

 

言い回しは微妙に違いますが、おおむねこのような返答をいただきました。

別表第4表の『情報』に必要な科目を一部抜粋すると、以下の通りです。

参考:https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/static/kyoinsenko/menkyo/m_shinsei/data/m_kentei02_16_r02.pdf

教科に関する専門的事項に関する科目 最低必要単位数 
情報社会・情報倫理 1
コンピュータ・情報処理(実習を含む) 1
情報システム(実習を含む) 1
情報通信ネットワーク(実習を含む) 1
情報と職業 1
小計 20

小計が20というのは、すべての項目を必要単位数で埋めた上で、『情報社会・情報倫理』に該当する科目を計15単位とってくるか、あるいは『コンピュータ・情報処理』に該当する科目を10単位、『情報と職業』に該当する科目を5単位とってくるといった組み合わせをすることで、合計で20単位にしなさいということです。

ただし、一つの項目においては大学を跨ってはいけないことになっています。

 

例えば、こういう取り方であれば問題はないですが、

教科に関する専門的事項に関する科目 取得状況
情報社会・情報倫理 放送大で1単位
コンピュータ・情報処理(実習を含む) 電通大で10単位
情報システム(実習を含む) 学芸大で2単位
情報通信ネットワーク(実習を含む) 放送大で3単位
情報と職業 電通大で4単位
小計 20

 

以下のような取り方は、大学を跨ってしまっているので認められません

教科に関する専門的事項に関する科目 取得状況
情報社会・情報倫理 放送大で1単位、電通大で5単位
コンピュータ・情報処理(実習を含む) 学芸大で2単位、電通大で2単位
情報システム(実習を含む) 学芸大で1単位、電通大で2単位
情報通信ネットワーク(実習を含む) 放送大で1単位、電通大で2単位
情報と職業 学芸大で2単位、放送大で2単位
小計 20

これを認めてしまうと、例えば『コンピュータ・情報処理(実習を含む)』において、「電通大で実験を履修して、学芸大で実験を履修すれば、座学の試験を受けなくて済む」といったことが可能になるからです。(適切に書くと包括的な内容を履修できていないことになるからです)

つまり私の場合、電通大ですでに履修した単位を使える(使う)ならば、電通大で科目等履修をしないといけないことがわかります。

 

5. 電通大の教職課程支援室ならび教務課とのやりとり

履修済みの科目のうち、どれが『教科に関する科目』として申請時に使えるかを調べる必要がありました。

結論から書くと、想定する以上に時間と精神には余裕を持った方がいいです。

繰り返しになりますが、電通大は教員を排出することに特化している大学ではありません。そのため、教員免許申請に関する最新版の知識を正確に把握している人が学内にいると思ってはいけないということです。

むしろ教務課の人に対しては、自分で先行して調べて「こちらについては東京都教育委員会の人に聞いてきたんですけど……」「卒研指導してくれた先生にも確認してきたんですけど……」などと主張した方がいいと思いました。

 

そしてここらのやりとりにおいて本題の、学科改組の影響を受けることになります。

 

まず自分がやったこととして、教職課程支援室に予約を取りました。情報の免許を取得するために、どの科目を履修する必要があるかを調べるためです。

(ちなみにカリキュラム自体は教務課でも教えてくれますが、教職課程支援室に先にアポを取って質問した方が、卒業生が同様に他科目の免許を取得した過去の例も把握していてスムーズに話が進むのではないかと考えました。)

旧課程において数学の教員免許を取得していること、旧課程において情報の免許取得のための科目をいくつか履修しているのではないかと考えていることなど、職員さんは丁寧に話を聞いてくださり、「現在は1類と2類の学生がそれぞれの類でこれらの単位を履修することにより、情報の免許を取得しています。だからあなたも情報の免許を取るなら1類か2類かどちらかの開講状況に合わせて、足りない単位を履修する必要がありそうです」といったことを教えていただきました。

 

さて電通大は現在、『情報理工学域』という制度を採っており、1類は情報系、2類は融合系、3類は理工系の内容に特化しています。

ここで厄介なのが、2類で開講している『力学』と、3類で開講している『力学』は同じ科目名でも、その類を卒業するにあたり求められる内容が微妙に違うため、2類の学生が3類の『力学』を履修して卒業することはできません。

(というか、そんなことをしようものなら履修登録の段階で撥ねられるはずですが)

だから情報科の免許を取る場合、1類に合わせてとるか、2類に合わせてとるかというところを求められますが、自分は迷わず1類を検討しました。1類には卒研でお世話になった先生や、自分が履修してきた科目担当の先生の大半が吸収されており、新しい科目を履修する上でもある程度アドバンテージがあると思ったからです。

 

次に1類の、情報の免許を取得するための『教科に関する科目』と、電通大で開講している対応科目を一部抜粋して掲載します。

教科に関する専門的事項に関する科目 電通大の授業科目
コンピュータ及び情報処理(実習を含む。)

・基礎プログラミング及び演習

・論理設計学

・情報領域演習第二

・情報領域演習第三

 コンピュータ設計論

 アルゴリズム論第二

 ソフトウェア工学

 計算理論

 ゲーム情報学

・印は教職の『教科に関する専門的事項に関する科目』において必修単位。

ここで私と教職課程支援室の職員は「おや」と気づきます。「一番上に書いてある『基礎プログラミング及び演習』は、履修済みである。だから今回の免許申請において免除になる可能性が高い」と考えました。

そのほかの科目に関しても、いくつかすでに履修しているといえそうなものが見つかりました。幸先が良いと思い、教務課に向かいます。(なおこの日は担当の職員さんがお休みだったため、1日ロスします)

 

しかし教務課に成績証明書を提出して確認してもらったところ、結果は『使えません。必修は全部履修してください』と言われます。は??????? なんで?????? まじ?????

 

私「ここにある『基礎プログラミング及び演習』は私も在学中に履修しました。卒業から年数もそうは経っていませんし、内容も大きく変わっていないと思います。だからもう一度とる必要はないと思っています。取るとしたら、在学中に履修していないこの『情報領域演習第二』だけとかになると思いますけどいかがですか」

教務課「学科改組したじゃないですか。同じ科目名かつ同じ内容でも読替ができないと思います。

 

つまり。

私は卒業をしているため、教員免許を取得する在学生の分と同時に、大学から教育委員会に対して一括申請をすることができません。私が個別に教育委員会に申請することになります。

その申請時に、『学力に関する証明書』という、教務課から発行してもらう書類の提出が必要です。

様式は私自身も見たことがありませんが、『コンピュータ及び情報処理(実習を含む)』という項目で発行してもらう場合、「次の者はこれこれの領域について、実習ではこの科目、座学ではこの科目を履修して所定の成績を収めたので学力を保証します」といったことが書かれていると思われます。

このときに、「実習では旧課程の***の科目、座学では新課程の***の科目を履修して」という書き方ができないと言われました。

 

つまり『基礎プログラミングおよび演習』をもう一度一年生に混じってやり直しってこと??? また配列を用意して素数を表示するプログラムとか書くの? はい??? わたし実務で******のプログラムを書いたこともあって****とかにも載ってるのに? まじ???

 

私「読替は効かないんですか?」

教務課「基本的には、旧課程で留年しまくってさらに途中で先生が退官なさって必修単位が消滅した学生さんの救済措置として、新課程ではこの単位を代わりにとってくださいねということのために使います。そうでないと、公平性が担保できないんですよ。今回のが通るなら、たとえば旧M科の学生が旧S科の力学を履修して卒業することも可能になってしまうからです。

それに旧課程の単位と新課程の単位をハイブリッドして学力に関する証明書を出したとして、教育委員会文科省がそれを免許申請時に認めるかどうか、こちらではわからないので出すことが難しい。だから新課程の様式に従って単位取得を進めていただいた方がよいかと。これが学科改組していなければ、また話は違ったんですが。」

私「たとえば、旧課程当時の担当教官らが読替OKといっても難しいでしょうか?」

教務課「こちらでは各科目の内容を把握していないのでなんとも言えませんが、基本的には難しいかと。結局は教育委員会に学力に関する証明書を提出するときに、それが通らない可能性もあるので。文科省から旧課程において、教職に関して必要な科目と認定された科目が消滅しているという状態だからです。」

 

といった話をされました。

もし仮に、卒業時に情報科教員取得のための単位が全部揃っていて、免許申請だけしていないという状況であればよかったのですが、全部揃っていないまま卒業したためこのような事態になりました。

 

あと余談ですが教務課から、衝撃の事実を告げられます。

教務課「免許法の別表第4の申請ということですけど、それは現在教員として働いている方に適用されるものだと思うんですよね。だから別表第1でとっていただくことになると思います。更に言えばあなたは旧法で教員免許を取っていますが、新法においては教育に関する科目が新たに増えています。そちらも履修していただく必要があります。」

 

???????????? 

 

新法では、『いまの学校は普通学級でも発達障害ボーダーの児童/生徒が増えたため、先生になる人はそういう生徒を教えられるようにそういった特性のことを学びましょう』という目的の科目が追加されています。私は旧法で免許を取得したので、その科目を履修していないという状況でした。

 

結局のところ自分はそれらの科目履修は必要なく、別表第4での適用、つまり教科に関する科目のみで免許をとれることを確認しています。(東京都教育委員会学芸大の教務課に問い合わせて確認しました。その節はありがとうございました。) 

繰り返しになりますが電通大は教員を排出することに特化している大学ではないので、教務課の職員を責める気は全くないですが(もともとイレギュラー対応をしていただいていることもあり)、科目等履修に関する願書を提出するのにタイムロスを食らったことは痛かったです。

そういったこともあり、自分がどういったルートで科目履修して免許を取得するか、自分が主体的になって調べてから臨んだ方がよいと思いました。(これが学芸大といった教育大学ならノウハウがたくさんあって、科目履修生でも聴いたらなんでも丁寧に教えてくれるかもしれませんが)

 

ちなみに学力に関する証明書における新旧課程ハイブリッド記載については、もし東京都教育委員会文科省がOKを出すなら教務課としても出せるかも……?といった話をされたので、現在ほうぼうに確認中です。

履修済み単位が認められれば、他に足りない単位を取得するための費用と時間に回せるので、そこが本当にどうにかなってくれたらいいのになあ(懇願)

 

まあそのへんが通らないなら情報科教員免許取得は潔く諦めて、普通自動車運転免許を取ろうと思います。はい。

母校が学科改組をしたことにより、思わぬ影響を受けていたという話でした。

AIは『神』になれるのか?再び囲碁棋士と考えるの公開討論に行ってきた話(1)

先日、こちらのイベントに参加してきました。そのとき聞いたことと思ったことを書いていきます。長くなったので分割していきます。

www.u-tokyo.ac.jp

概要PDF:https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400201410.pdf

 

行こうと思ったきっかけは、私の最近の趣味が囲碁ということと、トップ女流棋士の上野愛咲美さんがどのようにAIを捉えて日頃から使っているのかというところに興味がありました。

更にもっといえば、私が応援している同じくトップ棋士の一力遼さんが見ている世界の何かしらヒントが得られるかなと思い、応募しました。

あと大学時代の研究室が一応人工知能(というくくりでいいと思うんですけど)を扱っているので、多少理工学的な話になってもついていけるだろうと思いました。

 

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0. 会場の話

当日行ってみれば聴衆との質疑応答がないとのことで、最初からテンションが落ちてしまいました。なぜ事前抽選式の公開形式にしたのか、だいぶ謎です。

(まあ仮にどのような議論にも深く突っ込める人間がいると、収拾がつきにくくなるのである意味仕方ないかもしれません)

 

モデレーターの先生による最初の自己紹介では、上野愛咲美先生が今のところ最多勝利数の先頭を走っていることに触れ、ご本人も『今年はめちゃくちゃ頑張っているなと思う』と自己評価していました。若鯉戦も二連覇したばかりだし、本当にすごい。

次に東大のAI研究センター(あるいはそれに類する機関)からいらした先生が2,3人いて、「東大でもそういう機関がやっぱり増えてるんだな〜」と母校を思い出しつつ勝手な親近感を湧かせてました。

 

討論では、『囲碁AIについて』、『汎用AIについて』、『多様派AIについて』、そして『人間とAIが共存共栄をどう図っていくか?』というテーマに分けて、5人の登壇者がおのおの語っていくことになります。

ちなみにメインタイトルの『神』についてですが、この討論では『人間の脳を超える何か』とするという定義にされました。

モデレーターの先生曰く、『神とは何かを詳しく定義しようとするだけで多分2時間超えちゃうので』と言われてしまいましたが、個人的には「なんだ、やっぱりそこも切り込めないのか〜」と正直ここでも残念な気持ちになりました。

 

まあこういうことは言い出すとキリがないんですけどね。はい。

 

ちなみに客層は上野愛咲美先生目当てっぽい人が多かった気がします。というのも、上野先生が場が和むようなことを言うと「ふふっ」と笑う男性客が多かったので。

 

トークテーマ1. 『囲碁AIについて』

まず囲碁棋士大橋先生 が、「囲碁AIは少しずつ進歩している」と言ったものの、すぐさま上野先生が「そんなに強くなっているようには思えない」と率直な意見を述べて、会場の笑いを誘っていました。

AIの裏側のロジックや向上度合いについては察するものがあるんですけど、なかなか手厳しい感想だなと思いました。

お二人からは今日の囲碁AIの先駆けとなった、2016年のGoogle製のAlphaGoの登場と、そのAlphaGoが当時の世界トップ棋士であるリ・セドル氏に勝ったことが本当に衝撃的だったこと、それまではアマチュア有段者クラス程度のCPUならいくらでもあったけどプロと対等以上に打てるというAIが出てきたことは、シンギュラリティだったと思うという話が出ました。

しかし仮に『囲碁の神AI』が『ミスはないAI』とした場合、AlphaGoにはまだ初歩的ミスがあり、神にもランクがあると言えるのかもしれないと思えたという表現は個人的におもしろかったです。

「神にもランクがあるというか、個性ともいえるか、強いのは3種類に大別されるがそこからの派生は100種類ほどあり、しかしどれもまだ全部『最強』とまではいっていないことが不思議である」、「統一されるのかと思いきやそうでもなかった」という感想を大橋先生がおっしゃっていましたが、個人的には「棋士からすれば不思議だろうけど、中のロジックを考えればそれはそうなってしまうだろうな」と思いました。

下手に規格外の出力結果を出せば、むしろそのAIが外れ値というか、ポンコツの可能性が高いし。そもそも最強の定義って何よ?って話になりそうです。

このあたりは東大の先生からも『現段階では最強を求めようとすると、平均的な能力を持つAIになるだろう』、『今は正しい方向に強くなっているのか、それとも部分的な山に登っているのか、それすらもよくわからない状態』といったことを仰っていて、まあそりゃそうだよねという気持ちです。(さっきから『それはそう』という感想ばかりで、語彙力のなさがバレそう)

 

さらなる技術革新が起こらないと、囲碁棋士が望むような新たなAIは生まれないだろうと自分は思いますが、棋士のお二人はそのあたりの技術話にはわりと興味はなさそうに見えました。

別にそれがいいとか悪いとかではなく、棋士からすればAIに対してはあくまでユーザー感覚で対峙しているように見えたといいますか。

つまり『AIが強くなれるように協力します!』といった意見はおそらくマイノリティで(そういう人がいればおもしろいと思うんですけど)、むしろ『AIと戦ってみたい』、『AIに教わりたい』意識を持つ人が多いのだろうと思いました。

そういったAIに対する勝負意識や、AIと接する上での向上意識は自分の中にはない感覚だなとしみじみ思いました。あくまで自分は作る側に近いからこそ気づいたことかもしれません。

 

囲碁AIの定石について

大橋先生が「囲碁AIの定石は増えると思っていたのに偏りがある。それが強いから集約されていっているのか、それが強いとAIが思い込んでいるように思う」と表現していたのに対し、上野先生が「まったく逆でした。むしろ2~3年前ぐらいから二連星や三々に入ったりばかりだったのが、最近は初手小目なども種類が増えたと思う。人間たちの間で昔流行ったけど、廃れた定石も復活したというか、ループしている印象がある。AIっぽい手もあるし、人間が深く考えた手も戻っている」と表現していて、聞いているこちらも興味深いと思いました。

どちらの感覚が正しいのかはわかりかねますが、上野先生の意見を採り入れるとすれば、AIもまさしく手探りの状態なのだろうと思いました。

 

というか、それは結構意外でした。

 

AIもとい、探索問題なり教師ありの学習の手法なり、人間以上に厳密に計算をしながら(しているとは思うんですけど)、次の一手を導き出しているのかと思いきや、上野先生からすれば結構感覚的な手を打っているような印象を与えているというのが、衝撃でした。このあとの話でもちょっと触れるんですけど

AIと比較するとさすがに棋士側も厳密な計算をしきれないからこそ、感覚的な感想に陥ってしまうのかもしれませんが、それでも例えば「この手を打てば5目ぐらいが固くなるから、AIはここにしたんだろう」といった、数値的な感想が飛び出るのかなと思っていたけど、そうでもないんだな〜と、結構驚きました。

 

ちなみに東大の先生らは上野先生の感想に対して「多様性を許すような手を増やしたのかもしれない」、「強い棋士の手の戦略を真似していても、それだけだとやはり超えることはできないから」、大橋先生の感想については「強い棋士の手の戦略vsAI同士で対戦した際に、収束する方向性を決めているのかもしれない」、そして「それによって新たな気づきが増えているのかもしれない」といった(まあよくある)見解を述べていました。

 

KataGo vs KataGoにだけ勝てる最弱のAI

KataGo(かたご)とは、現時点においてトップ棋士にも迫る勢いの強さを誇る囲碁AIです。(先述のAlphaGoはセドル氏に勝ったこともあり、Googleは開発を中断しています)

そして最近、そのKataGoを倒すためだけの"最弱AI"が生まれました。

gadget.phileweb.com

KataGo以外のAIには負ける最弱のAIだけど、KataGo相手には最初の数回は絶対に勝つという謎のプログラムだそうです。

大橋先生は『KataGoのバグを突くプログラムとでもいいましょうか、普通の感覚だと打たない手で負ける。他のAIや弱い人間にも負けるのに、KataGoには最初だけ勝ったから不思議だった』とおっしゃっていました。

 

ただ、それって強い棋士の対局でも起きるんじゃないかなと思ったんですけど、どうなんでしょう?

仮にですけど、いま日本の序列一位の棋士である一力遼さんと超初心者の人間が対戦したとして、超初心者の打つ手が意味不明すぎて、それが一力さんみたいなまじめな棋士ほど混乱して、思わず大石をとられて大逆転されちゃうとか、いわゆる番狂わせが起きることは普通に起こるんじゃないかなと自分は思うのです。

けど数回も対局すれば「ああ、この人はこういうときにこういう下手な手を打つ。もう惑わされない」と、絶対に一力さんの方が勝つ。そんなことは囲碁に限らずともあると思うんですけど、どうなのかなあ。ちょっと違うかもしれませんけどゲシュタルト崩壊とか、ああいう感じに近いように思います。

(プロの力を舐めるなと言われたら申し訳ないです。。。ちなみに私は棋士の中では一力先生を一番尊敬しています……)

 

囲碁の神AIを作ることは可能だろうか?』

東大の先生らからは「技術的には可能だろうけど、やっぱり学習数が膨大になるだろうし、現時点では設計者は方向性を悩んでいると思う」という、(まあよくある)結論が提示されました。わかる〜〜〜。

研究者もエンジニアもみんな「技術的には可能」という言葉が好きだよね。みたぬはAIは作れるのか? 技術的には可能だよ。みたいなね。

 

なお現状の課題として、東大の先生からは「各棋士の得意なところを取り入れようとして、平均的なAIになってしまっている」と述べられました。(なんかこのへんはどうしても先に出た話と似通うよね)

それが通知表で言うところのオール5だったら問題ないんでしょうけど、おそらくまだオール4.5ぐらいの状態なのかもしれません。

 

ちなみに上野先生たちは『AIは神にはなれないように見える。なぜならシチョウとかが読めないから。今のままだと厳しい』とおっしゃっていました。

確かに、河野臨先生が解説した第46期棋聖戦の第6局でも終盤、『いまAIの評価値は一力さんに傾いているようですが、これは人間の目だと明らかですけど間違いです。コウが読めていないんです。これはもう井山さんの勝ちです(要約)』(実際、第6局は井山先生が勝ちました)といったことがあり、やっぱりまだまだ人間の方が強いんだなと聞いてがっかりしたような、ホッとしたような、複雑な気持ちだったことをよく覚えています。

 

さらに続いて、『ロジカルに半目勝つ』ということも現状のAIどころか今ある技術でも難しいだろう、といったことを東大の先生も指摘しており、個人的には「なーんだ」という気持ちでした(じゃあお前が作れや)

大橋先生いわく「いまのAIってふわっといい手を見つけて、ふわっと打ってふわっと勝つ感じ」だそうです……。ううむ。

そもそも囲碁は半目でも残っていれば勝ちのゲームですが、棋士ですらその最終図を厳密に計算しながら打っている人なんていないでしょうしね……。

だいたいの囲碁の指南書でも、布石の段階では「ここに打てば何目得する」という厳密な数値のことはは書かれておらず「だいたいこのへんがおすすめ」ぐらいしか書かれていません。

それをAIに求めるのは無理というのは、確かに筋が通っていそうです。

 

神と打ったとき、何子置けば勝てるか?

これはおもしろかったですね。まさしく棋士の先生方にしか聞けなさそうな話です。

囲碁はハンデをつけることができるゲームでして、ゲーム開始前に弱い人が何個かの石を盤面に置くことができます。その数え方を子(し)と呼びます。)

上野先生は、「現状のAIに対して2子を置いて打つ人もいて、最大で6子置く人もいる。私はだいたい4~5子だから、それを考えると神に対しては7子かも。適当だけど、でも7子なら勝てる気がする」と言っていたのは「おお〜〜〜〜」と思いました。

なんの参考にもならないでしょうけど、私が一力先生に勝とうとするにはおそらく17子必要です(最弱)

 

まあそれも神のパターンにもよるかもしれない、たとえば最善手に最善手を打ってくるタイプだとか、あるいはKataGoのように相手のミスを読み切って打つタイプだとまた違うかもしれない……というのもおもしろかったです。

プロ棋士も、やっぱり囲碁AIのタイプによって得手不得手があるのか〜と、そのへん対人間とも一緒なのがおもしろく感じました。

ちなみに、いまの囲碁AIは多神教という感じに見えるそうです、この表現もおもしろいなあと思いました。

 

コミの変化があるけど、将来神同士のAI対決はどうなると思いますか?

『コミ』というのは、囲碁において最初の黒番は有利なので(これは数学的に言える話です)、白番に対して何目かを渡してからスタートすることになっています。

そのコミの数値ルールは時代ごとに変わっており、たとえばヒカルの碁のsai vs toya koyoでは、当時の基準では藤原佐為が勝ちましたけど、今のルールだと負けになります。

それについて上野先生が、今も結構勝率が微妙に差が出ていて、6目半だと勝率が50%なのに7目半だと白の勝率が60%になる。

だから神同士は7目半で打つと引き分けられるんじゃないか、あるいは初手で投了になっちゃうこともあるかもしれない、と言っていました。

上野先生のその予想は鋭いというか、結構当たる気がするんですけど、どうなるのかな〜〜〜。

そうなってくると、先ほども言及された神のタイプによって、つまり神の人格みたいな部分が勝率に影響するのかもしれません。

 

 

 

すごく長くなったので、ひとまず今日はここまで。

すずめの戸締まり感想

suzume-tojimari-movie.jp

観てきました。感想を適当に書いていきます。そんなに校正していない。ネタバレあり。

 

前作の天気の子は個人的にいまいちだったので期待値は低めに/特に積極的に情報も調べずに行きました。

 

地震描写の話

TLに「東日本大震災を思わせる描写があるから、苦手な人は気をつけて」という注意喚起ツイートが出回っていたことと、予告の雰囲気から『そういう映画なんだろう』という覚悟はしていました。

しかし冒頭シーン、船が建物の上に乗っている描写を観て「岩手のじゃん……」と、最初から結構ダメージを受けてしまった。というよりも、3.11の当時のニュースを思い出したという方が近いです。

瓦礫と炎が上がる街の跡のシーンが流れた時は、震災当時に何度も観たニュース映像を想起して、「ああ、そうだった。そうだった。」という感じ。自分は当時も東京在住だったためそこまで被災したわけではないけれども、終始居ても立っても居られない感情になりました。

 

すずめについて

彼女のキャラクター造形には賛否両論ありそうですけど、まあイマドキの女子高生は良くも悪くもこんなもんなんだろうな〜と思いました。言ってしまえばいつもの新海誠だ!みたいな。

たとえば恋愛面。草太には完全一目惚れみたいでしたけど、そのへんもまあ女子高生っぽくていいんじゃないの?と思いました。

『いや椅子の期間が長かった草太に惚れる理由がわからない』という人もいると思うんですけど、女子高生なんだから、顔がいいとか声がいいとかで軽率に心奪われるぐらいがちょうどいいんじゃないのかなと私は思います。

それに最初の戸締まりのときの草太の声がかっこいいし、初対面の男の人が体を張って自分を守ってくれたとか必死に何かをやろうとしている姿を見てキュンとするなんて、現実にもありそうじゃん、みたいな。草太に惚れる流れはそこまで無理がないと思いました。

 

環さんとの関係性も、終盤シーンを含めてあれぐらいで普通じゃない?と不思議に納得できる自分もいます。

 

終盤というのは、環がすずめに「東京に帰ろう」と声をかけて言い争いになるやりとりの中で、すずめは環に『その感情が私には重いのよ!』と逆上して厳しい言葉を投げつけます。

このシーンについて、『その言葉は、ずっと育ててくれた環には言っちゃいけないだろ』と怒る人、ないしはすずめがそれで嫌いになったという人もいると思うんですけど、私にとってはこのシーンですずめを特段好感は持たないけど、逆に嫌いになる要素は全くないなと思いました。

というのも、このやりとりは実は結構難しい問題を孕んでいるように見えて、

むしろ、部外者(観客)がそんなことですずめを嫌な奴と考えてはいけないんじゃないか。そんな風に自分は考えています。

どうして自分がこのシーンですずめのことを嫌いにならなかったのかを考えたのですが、以下の二つの要素が大きいなと思いました。

 

1. すずめは女子高生で、まだ幼いから。

2. すずめは震災孤児で、震災さえなければ環の世話になるなんてことは早々なかっただろうから

 

1については、そのまんまです。すずめはまだ幼いが故に、周りの大人が自分をどう見ているかわからず、どうしても感情的に人とぶつかることもあるのは仕方ないよね、と思う自分がいます。役所の後輩の岡部が言っていた通り『遅くやってきた反抗期』として、理解できる範疇だなあと思いました。

 

2が個人的に重要ポイントです。

以下に書くことはあくまで、当時も今も東京在住だった私が知っていることであって、すべてが真実ではないかもしれません。

3.11の震災後当時、被災された地域の人たちに対して、支援物資が全国各地から寄せられていて、多くは美談として取り上げられていたように記憶しています。

ただ、中には明らかにゴミとして処分されるべきである衣服だの、洗濯していない毛布、期限が切れた食品といったものを送りつけられたところもあったそうで、『それらは不要です』と被災地が発信していたことがニュースになっていました。当然だと思います。

それに対して本当にごく一部ですが、『せっかくあげている人がいるのに、なんだその態度は』と逆上していた人もいたということをぼんやりと覚えています。

で、どこのニュースだったかはっきりとは覚えていないんですけど、被災された人の一人が、『私たちだって、本当はこんなもの(支援物資)を受け取らなくてもいいような暮らしをしていたのに。新品の下着だって、普通に買えていたのに。どうして使い古された他人の下着を着ないといけないんですか。私たちだって震災前は普通の暮らしをしていたのに。』というような発言を取り上げていたニュースがあって、「そりゃあそうだよなあ……」と自分はひどく心を痛めました。

 

で、戻ってすずめちゃんの話になるんですけど、

親戚とはいえ他人である環に育ててもらってること自体は、確かに感謝する気持ちを持っていることが望ましいとは思うし、環にそれ言ったらあかんーーーという気持ちももちろんあるけど、それですずめを嫌いになるかって言うと、『彼女が無自覚に母親が生きていたら自分に用意してくれていたかもしれない環境を想像して、現実の環のそれと比較して、環の用意するものはいらないと主張しても、それってもうしょうがないじゃん』という、同情的な気持ちを持つ方が先でした。

いやわかんないですよ? それに支援物資の話と混ぜちゃいけないって?

いや待ってくださいよ。

 

すずめは母親のことなんてもうほとんど覚えていないかもしれないですけど、それでもすずめは確実に『環は実の親ではないのに、育ててくれている人』『お母さんは立派な看護師で、自分も将来そうなりたい』という意識を常に持っている描写が、映画の中で随所に見られます。

つまりすずめはずっと『自分が生きていること(環が育ててくれていること)への感謝』、『環への遠慮』、『自分が現在置かれている環境に対して、一つ一つは特に具体的な文句があるわけではないけどなんともいえない苛立ち』、『小さい頃に大切な人を失っている悲しみ』が混在している中で生きてしまっているんじゃないかと。だから生きているか死んでいるかなんて運でしかない、という割り切った考え方にもなれてしまった。

これってどうしようもないし、自然な心情ですよね。

震災は起きちゃって、お母さんがいないのは事実ですから。

そこについて、『お母さんがいなくなってかわいそうだと思って、親になってくれた人がいるのに、感謝しないなんてなんてひどい子どもだ!』と逆上する観客がいるなら、先述の不要な支援物資の話と同じ構造に思えてたまらないのです。すずめからしたらね

頼んでないものを与え続けられているんだから、そりゃ文句の一つも出るよねというところは、私はやはり彼女に同情してしまう。

 

もちろん環さんだって人間だから、いろいろしてあげてきたのにどうしてそんなひどいことを言うのって怒るのも当然だとは思います。ここいらは親目線に寄り添ったらそれはそう。

親になるのだって相当の覚悟が必要で、出費もそうだし自分の人生の一部を諦めたという環の独白はその通りなんだろうと思います。

すずめが全然連絡してこないことについても、学校に行っていないことについても、あれだけ怒るのは心配しているからというのを理解していないすずめに苛立ちを覚えるのも、そりゃ愛情が深ければそうなんだろうと思います。

 

でもやっぱり、環のあの態度は被災していない人間側の言い分、あるいはちゃんと育てていない親の言い訳に過ぎないんだろうと思いました。

(ここで私の言いたいことは、被災した人間がえらいというわけではなく、真の意味で被災した人に寄り添うことは実質的に無理だということです。)

(というか、すずめが家出騒動を起こしている問題と、環さんがこれまで養育環境を整えてきた中での問題は、別として切り分けて言い争いするべきではあったんですけど。)

 

まとめていくと、あの言い争いのシーンは環とすずめが本当の親子になるために必要なやりとりだった、と評する人もいると思うんですけど、むしろ私は環だけがすずめの真の支援者(親)になるために必要なやりとりだったんじゃないのと思います。

まあほとんどの人には無理だろうけど、環さんはすずめに対して日頃から「私はあなたの実の親ではないけれど、それでも家族としてやっていきたいから、お互いにいいところダメなところを伝えていこう」的なコミュニケーションを怠ったんだろうなー。『放任主義』って言われちゃってるもんなあ。遅かれ早かれ、ああいう衝突は起きていても自然だったんだろうと思います。

すずめについてはそんな感じ。年相応と経験相応の精神構造を持ってる子じゃん。みたいな。

 

強いて言えば、最後のシーンの、過去のすずめに向かって現代のすずめが語りかけるシーンはちょっと綺麗すぎるというか自分に酔ってるのかなあと思ったけど、それらも含めてやっぱり女子高生っぽいというか。いるじゃん? tiktokやインスタとかでなんかポエム量産してる子……。

 

ただ、電子マネーをたくさん使っているところは環さんに対して感謝すべきだと思いました。

 

なんだか熱く語ってしまっているしまとまってない。

ここから駆け足でいこう。

 

草太さんについて

ビジュアルはハウルを意識してるのかな? 今までの新海誠作品にはいなかったような、ちょっと浮世離れした容姿の青年でした。閉じ師はすなわち魔法使いという意味でああなったのかな。

とにかく声がかっこよくて、本職の声優さんを使っているのかと思ったらSixTONESの松村さんでびっくりしました。

個人的にはずっと斉藤壮馬さんが演じてるのかと思ってた。一緒に観た夫は中村悠一さんが演じていたのかと思っていたそうな。なるほどー。

 

ダイジンについて

ネコ好きなので、ダイジンがガリガリのときや、遊園地のシーンで白熱した戦いを見せられている時は相当しんどかった……。ネコ使うのはずるいって。しかもあんなにネコ然した仕草なんだもん。可愛いよ。

あと結局要石の役目に戻っていくのもなんだか納得感が足りない。それでよかったのかおまえ……。

 

芹沢

いいやつだな。歌のチョイスが古いけど結構好き

 

こまごまとしたところについて

すずめが道中二人の女性に助けられたけど、うまくいき過ぎているように思った。

あれらについて実はダイジンは福の神要素も持っていて、ダイジンが訪れたところに、ダイジンに親切にした人が訪れれば必ずラッキーイベントが起きるようになっているとかそういう説明があればよかったなあと思う。

 

全体について

率直に、『どう評価したらいいか、わかんないなあ……』とずっと困惑しています。

世界観が嫌いか好きかで言えば、舞台が日本っぽい感じがあるので別に嫌いではないです。

キャラクターも感情移入はしにくいけど、ビジュアル面が好きだから好きだなーって感じ。

お話自体は、私の大好きな『ほしのこえ』を男女逆転してリブートしたなあと思っていて、そういう面では好きだと思います。男の子/女の子が世界の敵と戦うことになっていて、女の子/男の子がその子を追いかけるべく共に戦おうと奮闘するセカイ系だーといいますか。

 

ただ、やっぱり3.11が扱われたことが、感想を書く上でとても難しくなってしまいました。

地震は後ろ戸が開いていることが原因で起きているという世界観の設定というか解釈については、なんかこう、『3.11についてはどうしようもなかった』というところで感情を落ち着かせた人たちの気持ちに寄り添えていないんじゃないか、むしろこの映画に対して嫌な感情を想起させてないか心配になる自分がいます。

でも一方で、私は古いツイッタラーなので3.11の当時のツイッターランドの雰囲気を知っているんですけど、『被災者じゃないのに被災者の気持ちを勝手に代弁するなんて、”不謹慎厨だ!”と批難されやしないか』と、どうしても身体がビクビクするのです。当時はそういう流れがどこでも起きていてなあ(古のツイッタラー)

うーん。

 

「震災のことを忘れないように、そしてそれでも前に生きていこうという強いメッセージを伝えてくれるいい映画だった」とまでも思えなかったし、でも今回もとにかく映像が綺麗で、そこはやっぱりいいなあとも思えたり。

うーんうーん。

 

あまちゃんという、3.11を扱って社会現象を起こした朝ドラがあるんですけど、あれに出てきたアキちゃんのように、すずめがとにかく元気をくれる魅力的な女の子かっていうと、そこまで琴線も響かなかったし、とはいえそれで評価を下げるのも(キャラクターとはいえ)彼女らに申し訳ないなあという気持ちがあり、本当に難しい。

 

総論、スッキリはしなかったなあ……。ダイジンのことも含めて。

せめて恋愛描写にめちゃくちゃ振り切るか、被災者感情に寄り添う形に振り切るか、親子関係を丁寧に描くか、何かに特化できてたらよかったのかもなあ。わからんけど。

 

だから『なんかよくわかんない』ぐらいの感想なんだと思いました。まとまってないって?そうだと思います、すみません。

 

映画館を出た後に後ろのカップルが「あたしにはこの世界観が合わなくてキツかった!」って言ってたんだけど、それぐらいシンプルに客観的に観られるようになりたいです……。

おもしろ同人誌バザール神保町に初参加&出展してきた話

2022年11月6日の日曜、こちらのイベントに初参加&初出展してきました!

あとで読み返す用に所感を書いていきたいと思います。

hanmoto1.wixsite.com

 

参加動機

以前ブログにて、「コミケ参加は100でひとまず終わりにする。今後は他のイベントを見てみたい」という気持ちを書きました。

srknr.hatenablog.com

そして今回たまたま『おもバザ』のイベントをTLで見かけ、滑り込み参加申し込みを決めました。

おもバザはコミケでいうところの評論島に特化したイベントに思え、自分の趣味や頒布物とも親和性が高そうであること、神保町は自分が住んでいるところからアクセスもいいし、一度は歩いてみたかったという気持ちがありました。

何か作りたいというよりもイベントに出てみたいという気持ちの方が強く、今回は新刊は用意しませんでした。

 

出展者目線で思ったこと

全体的に準備がゆるくて楽

申し込み段階でサークルカットを用意しなくて済んだり、あれやこれやを読み込む量も少なく、わりとサクッと申し込めた気がします。

 

当日も全体的に楽でした。まず、会場(ベルサール神保町)へのアクセスが便利でした。会場選定が本当にありがたい〜。

ビックサイトもそこまでアクセスが悪いとは思いませんが、イベント当日に電車に乗っている人・公道を歩く人の数は桁違いなので、そういった意味でも利便性を感じました。(でも私が晴海近くに住んでいたら感想が違うのかもしれない)

貸し会議室ビルなので空調も効くし、お手洗いも近い。建物も新しくてテンションが上がりました。

 

次に受付。

出展者は朝9:30から10:50までに会場入りすればいいとのことで、コミケの早朝スケジュールと比較すると「やはり楽だな〜」と思いました。(繰り返しになるけど、コミケは人の出入り数と規模が段違いなので、比べることは違うとは思いつつ)

あとコロナ禍だからかはわからないけれど、おもバザは事前に出展者証の配布はなく、当日受付で一般参加者共通のパンフレットをもらうだけでした(パンフレットが通行者証代わりになる)

あと受付といってもスタッフさんからパンフレットを渡されただけで、特に名簿チェックもなく会場入りできました。逆にこんなにゆるくていいのだろうか……。(でも朝に出るときに、持ち物確認でバタバタする手間が省けるのは大いにありがたいです。)

さらに言えば見本誌提出もなく、基本的に出展者の善人性を信頼してくれているんだなと思いました。

 

イベントの客層

30~60代の人が多い印象でした。『何かしら特定コンテンツのガチオタクです!特定の本だけ買いに来ました!』という人たちではなく、色々なものに一通り興味を持っている人が多いという印象でした。

特に私の頒布物の場合、タイトルが長い+表紙もシンプルなものが多めなので、コミケだと素通りされやすいんだけど、おもバザは机の前に立って「ふーむ、このタイトルはどういうこと?」とコミュニケーションしていってくれる人が多いと感じました。

(ただしコミケはスペースが狭く人通りも多いので、迂闊に立ち止まりにくく、そうしたくてもできない人はいるとは思う)

ただイベント終わりぎわに隣スペースの人と話したところ、「結構目が肥えている人が多いのか、他イベントより捌けにくかった」と仰っていました。むずかしい……。

 

購入者目線で思ったこと

ざっと見、グルメや旅行を中心とした評論が多いな〜と思いました。逆に言えば技術評論や何かしらの分野のノウハウ本は数が少なく、そういったスペースには人もあまり寄っていなかった印象があります。

あとコミケの評論島で見たことがあるスペースが多かったです。やっぱり被るんだな〜。

そして会場を回るのが楽でした。最初は建物として二箇所に分かれていること、さらに2階・3階と階層をまたぐ案内図に不安にすら思っていたけど、歩いてみれば空間にもゆとりがあって吟味しやすい。ディスプレイを凝っているスペースも多く、見ていて楽しかったです。

 

一方で気づいたコミケの良さ

コミケとばかり比較していたけれど、コミケって改めてすごかったんだなと思えたところも出てきました。

別におもバザ主催さんに対して『コミケを見習え!』と言いたいわけではなく、以前の日記で『コミケは〜』と色々書いちゃったけど、コミケはこういうところがよかったんだなというか、自分はそれらをあたりまえに受け取っていたけどあたりまえじゃなかったということに気づけたので、忘れずに書いておきたいと思います。

 

ゴミ箱設置

お茶の容器を捨てようと思いビル内を歩いたけど、ゴミは全部持ち帰り。ここで初めて「あっ! そういえば他のイベントって大体ゴミ箱がない!」と気づき(思い出し)ました。

コミケだとだいたいどこかしらに大きなゴミ箱が設置されているのですが、それって本当にすごいことだったんだなと。

ゴミ箱設置(と回収)料金は出展料に加算されているのかもしれないし、設置しなかったらポイ捨てがたくさん生まれるからといった理由があるのかもしれないけれど、それでもやっぱりコミケってすごいと思いました。

 

会場内BGM

書くかどうかちょっと迷ったけど、設営準備しているときに、会場内スピーカーから正直に言えばあまり好きでないタイプの音楽がずっと流れていました。どうも主催者さんが個人でやっているバンドの曲っぽい……? 

そのため設営中はヘッドホンをずっとつけることにしたものの、これが開催中にずっと流れていたらキツイなとちょっと思いました。(確かイベント中はBGMは鳴ってない)

 

二次創作イベントで公式アニメの主題歌を流すのとは毛色が違うし(それはそれでJASRACといった違う問題は起きるかもしれないけど)、本音を言えば少しモヤっとしました。

ただ一方で、主催者さんらのイベント開催に至るまでの労力を思えば、好きな音楽を準備中に流すぐらい『まあ、いいかな』と思う自分もいる。

この『まあ、いいかな』という感情は積極的にOKというわけではないけど、本当に『まあ、それぐらいなら』的な。これがもっと強めのプロパガンダ行為、たとえば『こちらは私が所属している宗教団体の公式メシアソングです! 聞いてください!』とかであればその場で帰るけど、自分がヘッドホンをつけていれば問題ない範囲で収まったので、まあ(強い被害も出ていないし)いいかな〜という気持ちでした。

そのほかも実はちょっと「ん?」と思うことがあったけど、自主規制しておきます。

 

そして、『コミケってこういうことで意識を取られる必要はなかったんだな』と思いました。

コミケは『特定個人の好み』が全体運営に反映されにくいように見えていて、それは参加者にとってすごく気楽でいられた環境だったと思いました。(事実はわからないけど、末端泡沫サークルからすればそんな風に思っているということです)

たとえるなら、コミケや企業主催のイベントは大都会で、中小の即売会は地方の町というか。

大きいところほどシステマチックになっていて、最初に覚えなければいけないルールはたくさんあるけれど、慣れればすごく気楽に過ごせるし、本当にまずいことさえしなければ人数の多さゆえに後ろ指さされることもない。

一方で、中小は参入こそゆるいけれどそこにある暗黙的な文化に迎合する必要があり、顔見知りも多い中で、そこに馴染めないなら出て行くしかないという雰囲気を持っているというか。一長一短ですね。

 

余談というか

まあ本当にこのあたりってすごく難しい話のような気がしてきた。

営利団体でなく善意で開催してくれている主催に対して、あれしろこれしろと際限なく要求する行為はおかしいと思うし、かといって運営の私物化に歯止めがきかなくなると、自分が巻き込まれたときに自衛できないかもしれない。

コミケを持ち上げてはみたものの、コミケコミケで長年の実績と大規模になったからこそシステマチックできているところもあるだろうし(もちろんその中で何も揉め事が起きなかったとは考えにくいし)、それを他のイベントができるようになるかとかそもそもそこまで続くのか?とか考えだすと本当に難しい。

出展者・参加者だからと言ってなんでもかんでも要求しないようにいたいし、とはいえ運営は運営である程度の節度は持っていてほしい。ということが大事なんだろうけど、いや〜〜〜頭がパンクしそうです。

実際にそういったことで運営が潰れたところもいくつかみてきたので、ここいらは難しい問題……。

 

まとめというかどうでもいい自分語り

うまく言えないけど率直に言えば「ま、こんなものだよね」という感じです。悪くもなく良くもなく。

でも全体的に見たら、コミケの次に出てみたイベント体験としてよかったんだろうな、みたいな。(実際もっと他のイベントに出てみないとこのへんの評価は難しいんだろうけど、でも本当に強い不満も、逆に言えばとんでもない充実感があったわけではない)

 

おもバザではここに書いたこと以外にも色々なことを考えるきっかけに遭遇して、『そもそもどうしてイベントに出てるんだっけ?』『自分の人生にとって、おもしろいと思えるものってなんだろう?』というところを改めて考えさせてもらえました。

 

イベントに参加するときの理想像は『どうしても自分の中にあるこれを表現したい! そしてそれを気に入ってくれる人の元に届けたい!』からの『じゃあこのイベントがスケジュール的にもやりたいことにも合っている! 参加!』となるのがいいんだろうけど、

自分の場合は『人生に一度はコミケに行ってみたい!』からの『じゃあ出展側として出た方がいいよ』というアドバイスを受けて、それがなんやかんや周りの人たちのおかげで惰性で続けることができてしまいました。

最初の目的はとっくに達成しているし、今回は新しいこと探しでおもバザに参加させてもらった……というところだけど、やっぱり自分が求めていた楽しかったとはちょっと違うような気がしていて、はて何をすれば自分は楽しいんだろうとすごく考えてしまっています。

 

そのことと関係あるかどうかわからないけど、

自スペースに立ち寄ってくれたお姉さんと、「ここのスペースに置いてある本、傾向が結構バラバラな気がするんですけどどういうことですか!?w」という話で盛り上がって、「あっこちらの本は私が邪悪なときに作った本で、こちらは心が純粋なときに作れた本です!」という説明をしたら「ああ、だから結構テンションが違うんですね……なるほどこれでシナジーが生まれてるんですね」とめちゃくちゃ納得されて、一方で私も私で「あ、なるほど今の自分は綺麗に見せたい自分と、内側から出てくる負の感情とで今めちゃくちゃ喧嘩が起きていて本当は表現活動どころじゃないのかもな」といったことに気づいてしみじみしました。

やることやろうね、はい。

 

そんなところで今回も締めます。

本当にONE PIECEは常に掲載順が1~3番目だけなのか調べた

Yahoo!newsを眺めていたところ、以下のニュースがピックアップされていたので読んできました。

news.yahoo.co.jp

 

"Hunter×Hunter"の表記に多少ムッとしながら読み進めていくと(ハンターハンターはすべて大文字アルファベット表記が正しい)、さらにモヤっとした説明があります。

●25年のジャンプ史と振り返る『ONE PIECE』の凄さ

 鮮烈デビューとはこのことだろう。1975年生まれのONEPIECEの作者・尾田栄一郎氏は、中学2年のときから海賊をテーマにしたマンガを描き始め、1992年の高校時代に「手塚賞」に準入選。その後、大学を1年で中退し、『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の作者・和月伸宏氏のアシスタント時代に出した読み切りマンガ『ROMANCE DAWN』(1994年)を原型として、ONEPIECEを1997年から連載開始。まさかの連載第1作目にして、そこから25年にわたって時代を駆け抜ける、マンガ史上最大級のヒット作を描き続けることになる。

 1997年登場初期から常に(人気順での)1~3番目に掲載されており、『Hunter×Hunter』(1998年3月)や『NARUTO』などの人気作もひしめく中で不動の1位を保ち続けてきた。2010年代に入ってすら『暗殺教室』『僕のヒーローアカデミア』『Dr.Stone』『鬼滅の刃』といった人気作と伍してわたり、ほぼこの15年間ゆるがない位置にあった本作は、2022年現在、エンディングに向けての道筋をカウントダウンに入っている。

 

1997年登場初期から常に(人気順での)1~3番目に掲載されており、

 

『人気順での1~3番目に掲載』って何……?

あ、もしかしてジャンプの掲載順は早いほど人気作っていうシステムを説明したいってこと? なるほど? いや別に人気作だからって前の方に掲載されるとも限らんけどジャンプは……。いやまあ大体は人気作ほど前に掲載されるけど、ジョジョジャガーさんもオオトリ(あるいは周辺)を飾ってくれてたけど超人気だったよ。人気じゃないと前に載らないってわけでもないしこの表現は他の作品に対して超失礼じゃん……主にHUNTER×HUNTERとかにさ(怒ってる)

 

いやそもそもONE PIECEは常に1~3番目に掲載されてない それは真実ではない こういう歴史修整はよくない

(アルコール飲んでいるのでテンションが若干雑)

 

というわけで手元にあった約20年前ぐらいのジャンプを、明日資源ゴミだし解体ついでに眺めます。

 

はいまずは適当に取り出した2001年33号のジャンプ。表紙はONE PIECEです。

ONE PIECEはいつも画面が元気一杯で好きです(最近の絵はちゃんと見てないけど)

さて気になる掲載順は……

1. ヒカルの碁

2. ボボボーボ・ボーボボ

3. 遊☆戯☆王

4. ONE PIECE

 

4位。4位である。(ヒカルの碁は右側列に書いてあることに注意。ページ数を見ること)

ちなみにこのときのヒカ碁は藤原佐為が消えた回で、ボーボボは鼻毛道場編開始。遊戯王は海馬社長がイシズと戦っており、ONE PIECEはナミがアラバスタにてサイクロンテンポを編み出したところです。なかなか熱いですね。

 

『常に』と書いていたので、一冊だけでもONE PIECEの掲載順が1~3位から外れている号を出せば、くだんの説明は棄却されると思っているんですけど、『ONE PIECEが表紙飾ってるしこんなん外れ値やろプギャー』とか言われたら怒るので次を出します。

 

さて取り出したのは2001年23号。なんとMr.FULLSWINGの新連載号です(21年前だったのか……)ちなみにジャンプでは、新連載は表紙&巻頭カラーを飾ることが慣例になっています。

マンキンのアニメ化が発表されたりと熱い号です。

では、見るぞ!!!

1. Mr.FULLSWING

2. ヒカルの碁

3. 遊☆戯☆王

4. HUNTER×HUNTER

5. ONE PIECE

 

読んでくださいエンタメ社会学者、Re entertainment代表取締役 中山淳雄さん……(っていうかエンタメ社会学者って何だろう?)

ちなみにこのときのヒカ碁はsai vs toya koyoという、ヒカ碁の中でも1,2位を争う人気対局をしていたとき。遊戯王バトルシティトーナメント準決勝者を決める戦い前でした。

そして我らがHUNTER×HUNTERはパクノダがリンゴーン空港に単身でやってきてクラピカにジャッジメントチェーンを刺されるという超重要回で、私はこの回における団長の「パクノダ 気づけ!」のモノローグには団長の『いつでも命を投げ捨てられる精神』が見え隠れしているし、それにも関わらずパクノダがジャッジメントチェーンを団長とパクノダに刺すことを了承したときの団長の表情がまさしく失望しているという感じがあっていや〜冨樫先生最高だなって思いますそしてここのクラピカの逡巡が最高だし今というかBW号までに至るクラピカの脆さをよく表している回とも思います(ここまで一口)

そしてONE PIECEはアラバスタにて、麦わらの一味がビビ王女に扮して敵を撹乱させる回でした。ちなみに私はクロコダイルが好きです。

 

酔っ払ったテンションなのでそんなにおもしろいことは書けてませんが、次。

年代飛んで2004年35号。3年経つとラインナップも結構入れ替わっています。

表紙のボーボボの圧がすごい。

そして順位は……

1. ボボボーボ・ボーボボ

2. DEATH NOTE

3. BLEACH

4. ONE PIECE

なんかまあこんなもんですね。っていうか今回紹介した三冊中二冊において、ボーボボONE PIECEの掲載順1~3位入りを阻止しているという事実に驚いています。

 

そして完全に後出しですが、個人の方が週刊少年ジャンプの全作品の掲載順位をまとめて無料公開している、とんでもなくすごいサイトがあります。

www.jajanken.net

こちらのサイトを見ればONE PIECEは最初こそ中堅順位だったことがわかります。

社会学者を名乗るなら、古いジャンプを探して買って読めとまでは言わないまでも、こういったサイトをちゃんと見てください中山淳雄さん……(適切に調べていないのが丸わかりな『人気順での〜』表記とHunter×Hunter表記に怒っているのであって、別にONE PIECEにキレているわけではない)

ジャジャン研 - 『ONE PIECE』少年ジャンプ掲載データ

 

ただ、ONE PIECEの掲載順において、1~3位以外のときを探すのは大変ということは変わりありません。

近年で1~3位以外のときは2019年45号に5位。それでも3年前。そもそもここ10年で1~3位外に掲載されたのはたったの8回。すさまじい。それに競争が激しいジャンプにおいて、20年以上も連載が続いているONE PIECEはやっぱりすごい。

だからこそデータはちゃんと書いた方がいいと思うんですよね。いかにすごいのか、わかんなくなっちゃうし。

 

というわけで今日のブログはこんなところで締めます。

そしてHUNTER×HUNTERをよろしくお願いします。おあとがよろしいようで。

読書メモ:『30代にしておきたい17のこと』(追記あり)

休日にヴィレッジヴァンガードをふらふらしていたら、なんとなく目に留まったのでとりあえず読むことにしました。というわけで感想。

総括

言ってしまえば『20~30代の凡人のための本』です。

筆者自身はとっくに30代を過ぎた後に本書を書いたそうで、30代はこういうことがあった。周りの話を聞いてもこんな感じである。だからあなたもこういった人生のイベントが来ると想定してこれからの人生を動きなさい、というよくある自己啓発+哲学を説く本でした。

中身も例えば『自分にとっての幸せを定義しておく』だとか、『自分の親との関係を見直しておく』とか、そんな感じの内容が列挙されています。こまごまとした内容については「まあ、そういう考え方や生き方もありますよね」という具合に概ね同意できるものです。

12年前に発行された本とはいえ、どの章も読みやすいし、今の世の中の価値観でも通用する内容で、人におすすめできると言えばできる本です。30分もあれば読み終えるぐらいライトですし。

 

ただまあどこにでもあるような内容なので、誰かに熱心にこの本を薦めるかと言われたら難しいかな……。

自分はこの本を読んでから一時間後にこのブログを開いたんだけど、「はて、なにか刺さる言葉はあったかな」と思い出そうとしてもなんとなく難しかったです。

しかしながら最後の方にあった『自分の人生の最後、どうなっていてほしいか』とか『人が最後に死ぬときに思うことの大半は『家族ともっと過ごせばよかった』ということ』といった内容は、定期的に思い出しておきたい人生観だなあと思いました。

 

〜〜〜

しかしなんというかここ10年ほど、表立って野心的に生きるように説く人生哲学の本は全然見かけない気がします。

もちろんスマートに生きることも大事ですけど、なんか同じような方向を向いている人を量産していそうな。そんな薄暗さを感じます。

 

 

==追記==(9/19)

 

ちなみに私は自分自身のことを凡人だと思っております。というのも特に何かを成したということもないからです。

だから本書の内容に関して、「私はこんなつまらない器に収まらない!」(?)と斜に構えて読んだというよりかは「うーんまあ確かにこういう感じになるorなっているんだろうな」と、どこか納得というか諦めというか、特に反抗する気持ちもなく読み進めた気はします。

強いて言えば、幼い頃からなんとなく「自分は20歳まで生きているかよくわからない」という気持ちを抱いており、それは別に病気とかではなく、「大人になって働いていたり結婚していたりする自分を想像できない」という気持ちがあって、そういう意味で本書の内容を全部肯定できないなというところはありました。「え、そもそもまだ人生って続くんですか?」みたいな、

以前にもTwitterでつぶやきましたが、大人になっているかわからんという気持ちで10代を生きて、そしてなんやかんやで20歳を超えて生きている今の人生は気持ちの上でどこかサドンデスモードに入っており、「どこまでやっていいものか、やっていくものなのかよくわからない」と、どこか地に足ついていないような感覚で『大人』をやらせてもらっているという気持ちのままです。

 

そういうのもひっくるめて『いい加減あなたもここに書いてあるような、ほとんどの人にあてはまるような凡人として生きていくんだよ』という皮肉のメッセージを込めた本という意味なら、まあおもしろい本だったのかもしれないな、と思い返して追記とさせてもらいました。おわり。

読書メモ:リーダーの作法 ささいなことをていねいに

『リーダーの作法 ささいなことをていねいに』を読んだので感想。

背景

自分はリーダーではないけど、リーダー職に就いている人から「どうしたらいいかね〜」と相談(あるいはぼやき)を聞かせてもらうことが多いので、そういうときに「そういえばこちらの本では……」という具合にお話できればいいなあと思い、読むことにしました。

さらに本の冒頭にある『本書の推薦の言葉』という一覧の中に、

ロップが書いてくれたこの本をチームメンバーが読んだら、なにがなんでもあなたに読ませるでしょう

ともありましたので、おそらくメンバークラスが読んでも問題のない、それどころか自分自身もタイトルにある『ささいなことをていねいに』ができるようになれる・あるいは人に薦めたくなるtipsに触れられる内容だろうと考えました。

 

結論

人にオススメする度:★★★☆☆

ささいなことをていねいにできるようになれそうか度:★★☆☆☆

 

感想

本書はNetscapeでマネージャー,Appleでディレクター,slackでエグゼクティブを経験した著者が、それぞれの立場に応じて求められる振る舞いをエッセイ形式で紹介しています。

目次に書いてある表題については響くものが多く、内容によってはメンバークラスでも参考になるものもありました。

個人的にオススメする章は

8章:ランズおすすめの時間節約術

『ちょっとしたことによって、日々1秒1分と節約できます。それができれば、その時間で何か別のことができますよね。是非いまからやりましょう』と、やや強引な語り口ながら、非常に細かいtipsを紹介しています。例えばブラウザで一度に開くタブは常に10個以下にしましょう、といったものです。

それはなぜそうする必要があるのか、それをやることでどういった恩恵が得られるのかといったことを丁寧に書いているところ(それはこの章に限らず他のところでもだいたいそうですが)は、読者に寄り添っている印象を受け、率直に良いなと思いました。

 

章の中で紹介されている項目を実際に読者がやれるかどうかはともかくとして、小さいことでも頭を消耗させるようなことはなるべく日常的に排除しておくということは大事だと改めて考えさせてくれます。

 

10章:青テープリスト

『人が新しい環境におかれたとき、違和感を受けたものはすべて気になるもの。』という前提に立った上で、それらについてどう対処するか?という章です。

でも、そのすべてに対していますぐ直すように取り組むのではなく、それら違和感のあるものについてすべてリストアップしてから、さらに一ヶ月ほど置いて、またそのリストを読み返すことをこの章では勧めています。

そうすると、それらのリスト項目のすべてがすべて緊急性のあるものではないということに気付けるか、あるいは自分自身がその環境に馴染めて、視野が広がっている可能性があるから。という提言でした。

しかしここで重要なのは、リストアップした項目については『すべて修正する』という面持ちでいること。なあなあにしてはいけない、自分の心を騙すことになるから。といった具合に締められていました。

 

確かに新入社員や転職したての人にとっては、新しい環境において気になるところは必ず出ると思うので、リーダーと共に『これらは〜〜〜という理由で修正する』という共通マインドを持っておくことは心を健全に保ちやすいのかなと思います。

 

29章:ランズ流仕事術 

29.5の気質と正誤表に関しては、リーダーだけでなくメンバーにもやるとよさそう。価値観トランプや、私取説に近いものがあります。

たとえば『もし私がミーティング中に30秒以上スマホを操作していたら、何か言ってください。私は気が散っています』といった、その人に関する説明を列挙するように促しています。

「確かにこういうのリーダーもメンバーも提示してくれると楽だよね〜」と思いました。

 

しかし薦めにくい理由

著者は基本的に、チームの円滑化のためにメンバーと1on1を推奨しています。その1on1における態度を丁寧に書いています。

とにかくとことんまで1on1をやるように。会話の回数はもちろん、1on1では愛を持って、我慢をして。相手に任せる。そして場を沈黙が支配するならどのように話を進めればいいか。リーダーである自分にとって不利益な話を流された時、どのような態度でメンバーに接したら良いかといったhow toが書いてあります。

 

能動的にこの本を読むリーダー職の人なら『ああなるほど、こうすればうまくいくのかもしれない』『こういうときはこういう態度で臨めば良いのか』という具合に何かしら知見を得られると思いますが、受動的に「この本にこんなことを書いてありました」とメンバーから薦められて読んだリーダーの場合、皮肉か嫌味を言われているかのような気持ちになるのではないかと、容易に想像ができてしまいました。だから薦めにくいです。

さらに一歩踏み込んで、それでもまだ人の話に傾聴できるリーダーが読んだとして、『リーダーってこんなにやらなきゃいけないの!?』と悲鳴をあげるんじゃないかと思いました。ちょっと同情してしまう。

けどそれがリーダーの仕事ですよと言うのは簡単です。けどそうじゃないじゃん……?

 

あと日本の企業文化と馴染まなさそうだと思いました。メンバーから有益な話を引き出せるようになる・あるいはパフォーマンスが向上するようになるまで何度も1on1の予定を入れてもいいところなんて、ごく稀じゃないかと自分は思います。

ほとんどの場合、上長に「すみません。メンバーに対して1on1をやりたいです」と工数交渉をする段階で「そんなことより手を動かした方が早いんじゃないの?」といった具合に、説得に失敗するんじゃないでしょうか。だからちょっと馴染まない人(文化)にはとことん馴染まない可能性もあります。

 

なにより、リーダー自身が1on1の効果を確信できていなければ1on1をやってみようという気持ちにはなりにくいとも想像できてしまい、全体的に『1on1推し!』という風潮が前面に出ている本書を薦めにくいなと思いました。(ただ採用に際しての心構えは、興味深いかなと思いますが)

 

あと個人の好みの問題で、(おそらく原著もいまいちなのだろうけど、)翻訳が馴染まなかったです。

翻訳者の人は指示代名詞をそのまま訳しがちのところがあるようで、一度頭の中で英語に置き換えて「たぶん本当はもっと軽いイントネーションだったはず……」と考えながら、あるいは何度も文章を往復しながら読まないといけず、やや負担でした。

(deepLとomegaTが翻訳の際に役立ったと書いてありましたが、なるほどな〜と合点がいきました)

 

もう一つ加えると、他のオライリー本と少し違って「じゃあちょっとこれやってみようかな」と思えるほど、熱狂的にはさせてもらえなかったのもマイナスポイントでした。

おそらく具体的なエピソードを取り扱いすぎがゆえに、その状況を想像するだけで読者はすでにげんなりしてしまい、気持ちが暗い方向に引っ張られてしまっているからだと思います。ハッピーエンドな方向になることが示唆されていれば、少しは気持ちが向上するかもしれないですが、ほとんどの章は『このときリーダーであるあなたはこうしなさい』という命令口調あるいは圧のあるものが多く、そこらへんもリーダー職の人に薦めにくいと思いました。

 

感想まとめに入りたい

最後の方はネガティブポイントを列挙してしまいましたが、構成がどこから読んでもいいというスタイルになっているので、何か煮詰まった時にパラパラと読み流すために置いておけばいつの日にか役立つこともありそうな本だとは思います。

それに自分自身も立場が変われば今度は共感や納得を持って読み進められるかもしれないので、また時間が経てば読み返したいです。