みたぬメモ

地味にメモ

それにしても文が書けなくなってきた

文が破滅的に書けない。

昔の方がまだスラスラと情を乗せて書くことができていた気がする。

 

色々書けない理由はあって

1.  最近後輩から「みたぬさんの文は起承転結型なんですよ。全体を通して読むとわかるんだけど、各章が独立しておらず、説明には全く向いていない」と言われたことが非常に刺さっていて、それを直したいと思うとなかなかうまく書けない(気がしている)。

2. 今のインターネットは下手なことを書くとどういったことが起こるかわからないので、沈黙は金……という気持ちで筆不精になっている。

3. 年齢に応じた表現がしたいと思っているのだけど、選ぶ言葉が非常にチープというか軽く響くことが多く、書いていてどうにもしっくりこない。

 

こんな感じです。

語彙力を増やそうとなるべく本を読む時間を増やしているのだけど、読めば読むほど袋小路にハマっている気がします。

(まあこの程度の文章ならスラスラと書けるんだけど、何かしらの分野についてバイアスをなくして自分の意見を書くというのが本当に下手で、下書きに溜まっている文章がたくさんある……)

なんかいいコツあれば教えてください。

5年の振り返り

きっかけはslackの仕様変更

slackの仕様が2022年9月1日から変更されることになりました。

さらにプランの利用上限もシンプルになります。これまでフリープランでは、メッセージ数 10,000 件、ストレージ容量 5 GB という制限がありましたが、今後は過去 90 日間のメッセージ履歴とファイルストレージを無制限に利用できるため、チームはいつ上限に達するのか心配する必要はありません。フリープランを活用しているチームでは、ほとんどの場合、制限が 90 日に変わったことでアクセスできるメッセージ履歴が増えるでしょう。過去 90 日間にどれほど Slack を使っていても、その間の履歴には必ずアクセスできます。

参考:Slack 初の料金改定とフリープランの内容変更のお知らせ | Slack

 

私は家庭連絡用にslackにスペースを作っていましたが今回の変更によって、過去90日を超えた分のログは見られなくなるため、慌ててログをエクスポートしました。

実はその中にこっそりと『目標/やりたいこと』というチャンネルを作っていて、遡ると5年ほど前から色々と書き込んでいました。

せっかくだしこの5年で達成できたものがあるか、それはどんなものか、そして何が達成できていなくてそれはどうして達成できなかったのかを振り返っていきます。

 

振り返り

やれたこと:

貯金、資格を取る、料理、健康的な習慣を続けること、手続き など

 

やれなかったこと:

ダイエット、海外旅行、部屋の掃除、人と持続的に仲良くすること など

 

ざっくりと書き出すとこんな感じでした。

 

やれたこと編

貯金については気づいたら目標額を超えていた。というか、使わないで働けばあっさり達成できる額であった可能性は否定できない。

もう少し自分の収支バランスを踏まえて高い目標を設定してもいいのかなと思いました。

 

資格について。本当に欲しかった資格はまだ取れていないのだけど、この5年で原付と小型特殊免許をとった。(なお一度も公道で運転はしていない)

新しい分野についても勉強すればちゃんと資格が取れるんだなという自信はついたので、今後もいろいろな資格取得を目指したいと思います。そして取りたい資格もちゃんと取ります……(申し込みし忘れた)

 

料理は在宅勤務のおかげで機会が増えたからやれている。やっぱりやらざるを得ない状況に置かれると人って変わるよね……。あと最近でいうと某チェーン店のナメクジ騒動を見て、「外食こわいなー」という気持ちが増したので、さらに自炊率が上がりました。

最近気に入ってよく作るのはこちらの鶏つくねです。材料が少なく手間も少ないのでおすすめ!

www.kewpie.co.jp

 

健康的な習慣については、雨の日でない限りは毎日8,000歩以上歩いています。

最近だとコミケに備えて体力づくりのために30分以上走っている習慣が今も続いていて、いい健康習慣になっているんじゃないかなと思います。

とはいえ仕事が忙しすぎてろくに睡眠が取れない時期もあったので、睡眠だけは本当に気をつけたいと思います。はい。

 

手続き。

昔から夏休みの宿題とか提出できないと不安でしょうがないタイプの人間だったので(クオリティはさておき)、公的/私的な手続きは結構スムーズにかつ優先度高くやってこれています。これは今後も維持したいです。

 

やれなかったこと編

ダイエット。そもそも目標が高かったので、実現するには自分の食事量と運動量を相当厳しく調整する必要があったと思います。

そこに至るまでの道筋をきちんと立ててもいないのに、そりゃ実現できるわけないよね、という感じ。

なんというかそれがいいか悪いかは別として、「絶対こうなりたい!」という強い意志力もそこに割く意識リソースも低かったように思います。

 

海外旅行については、行こうとしたタイミングでコロナがどうこうみたいな世の中の流れになったのでこれは不可抗力ということにしたい。けど上に同じように、やっぱり「絶対行きたい!」という気持ちはそこまでなかったかもしれない。。。

でも国内で言えば京都、沖縄、北海道などそれなりに足を運べたので、それより前の5年と比べると進歩を感じられます。

 

部屋の掃除については、、、これに関して自分でも驚くほど色々とみっちり目標を書いていた。

このジャンルグッズについてはもう整理するだとか(できてない)、もう少し机周りを綺麗にしたいとか(できてない)、このDVDは観たら人に譲るとか(まだ家にある)、本当に驚くほど部屋の掃除や整理について考えていたのかと思い知らされてびっくりしている。

(ちなみにそんなに汚いの?と言われそうなので答えると、なんていうか情報量が多い部屋なのです。そこいらにハンターハンターだのカービィグッズだのが所狭しどころか縦横無尽に飾られている。)

もう少し片付けたい、というか、整理しないといつまでたっても脳や目標のほとんどが「掃除したい」に占められてしまいます。よくない〜〜〜。まあ断捨離をしているので、これはもうじきよくなると信じたいというか思い込みたい。

 

人と持続的に仲良くすること。

結論から言えば、5年前と今とを比べると付き合う人は結構変わったと思う。そういう意味では持続させられていない。

けれど一方で、昔からの繋がりのある特定の人たちとだけずっと仲良くしているかと言われればそれだけでなく、この5年で他にたくさんの出会いもあって、その中でありがたくも好意的に接してくれる人もいて、マイナスだらけというわけではないと思うんだけど、どうかなあ。

あと自分の至らなさのせいだけで今までのように仲良くすることが不可能になりました、ってことも全然ないよなあってことにも気づいた。(たとえば仲良くしてくれていた人が結婚して、その人には家庭ができたわけだし今までのように気軽に飲みに行こう!とは誘いにくいといったことは当然あるわけです)

 

というわけで、そもそも目標が曖昧かつ不適切だったと思います。自分でコントロールできる範囲にすべきでした。たとえば『極力波風を立たせないようにする』だとか『火中の栗を拾いに行かない』とか、『この人/組織まずいと思ったらすぐに退く』、『思うところあっても、少し自分の中で整理してから発言する』とか、こういう目標だったのかもしれない。気をつけようね。はい。

 
Q. さて5年の振り返りをしましたが、振り返ってみて成長できてますか?

さすがに5年も経っているおかげで、成長している部分はあるように思います。ただし伸び率でいうと、目標設定があいまいだったことや目標に至るまでの筋道を最初にしっかり立てていなかった問題はあるにせよ、満足はできていないです。

 

これから必要なのは、自分の今の能力や立ち位置をしっかり客観視した上で、自分をどうセルフメイクしていくか、地に足つけて日々を過ごすことなんだろうなと思いました。

なんかこう書くとすごく堅苦しいけど、でもやっぱり地に足つけてまた目標を立てていきたいな〜と思います。

 

断捨離をしている話

断捨離している

最近の日記でもグッズを集めるのをそこそこにしているということを書いた気がするけど、ここのところグッズをはじめいろいろなものを断捨離しています。(いろいろといっても、グッズを手放している比率が圧倒的に高いけど)

 

グッズを手放していることについて

部屋に物が多すぎるとはしょっちゅう意識しており、さらに色々思うところあって、「グッズが自分の生活や人生を助けてくれるわけではない」という気持ちになりました。中学生頃の自分が聞くとびっくりする価値観の変化だと思います。(なにせ自分のお小遣いのほとんどは常にグッズに投入してきた人生だったので……。)

 

もともとコレクター(気質)になったのも、『それそのものが欲しかった』というよりも、『何か満たされていない感情があって、その気持ちを紛らわせるために集めていた』ことが多かったんじゃないかなと述懐しています。(もちろん本当に欲しくて手に入れることもたくさんあるけど、自分の場合はいわゆる箱買いや併せ買いが多くて、推しキャラ以外も手元に持ちがちだったりする。)

過去の日記を読み返していても生活が充実しているときは「これは今の私にいらない」といった判断ができているようだけど、無性にイライラしていることがあると途端に机周りや家中に色々と置き始めている気がします。いかんことです。心の乱れは部屋の乱れとはよく言ったもの……。

 

いい意味で他の人と比較する

それこそTwitterやインスタを眺めていると、何か特定のジャンルのぬいぐるみやフィギュアを綺麗にガラスケースや棚に飾っている人をたくさん見かけることができて、一方で自分はその領域まで至れてないし、現状だと今後もそうすることは可能性として低いだろうと思いました。持っているだけで満足しちゃっているというやつです。

同じように趣味のものを集めている人たちの話を聞かせてもらっても、「自分はこの人たちほどグッズを大事にできているわけじゃないな」ということに気づけたのも大きいです。

具体的な話をすると自分の場合、グッズを手に入れたけどもったいなくて開けられないままでいることが多く、箱やビニールのまま飾っていることがザラです。でもそれって本当に物を愛しているのかというか箱を眺めているだけで実体がよくわからなくなっているし、物に対して健全じゃないんだろうなーという気持ちになっていました。

しかし他の人たちは「これは買ったらどこどこに飾る!」「これはこういうときに使う」とちゃんと決めてから買っている。すごい。えらい。最近そういう人たちに物をよく譲っている。

 

いろいろな考え方や消費に触れた

他の人って何にお金使ってるのかなーと自分なりに色々と考えを聞かせてもらったり、本を読んでみたりしている。

その中で一番自分からかけ離れていて興味深いと思った考え方は、仕事で会計管理をしている人から聞かせてもらった「経費で落とせるもの、落とせないもの、税額控除されるもの、されないものを知っていると何に消費をすべきか適切な答えが見える」というもので(細部はちょっと違うと思う)、自分に足りないものはこういう考え方なんだろうなと思った。(減価償却とか投資効果とかたぶんそういう知識です。)

 

とはいえお小遣いを全力でグッズに投入してきたような自分がいきなり100%そうするのはやっぱり難しいので、最近は『今の自分』が欲しいものかどうか、でよく考えるようになった。

『今の自分』について、これを適切に書こうとするのは結構難しいけどむりやり書くなら『過去の自分なら絶対買ってただろう』、『未来にこれを所有していない自分を考えたとき、きっと後悔してる』と考えるものではなくて、『今の自分がこれを必要だと思って、せめて一年はこれを手に入れたことを喜んでいられる自分』という設定をした。

たとえば自分は中古ショップやフリマアプリを眺めるのが好きで、中高生ぐらいのときに手に入れられなかったグッズを見かけると「欲しい、買っちゃお!」と勢いで買うことが多かったのだけど、最近は「それって過去の自分が欲しかったものだよね?」と立ち止まるようになりました。

で、過去の自分が欲しかったし実際に今の自分もそれが欲しいと考えても、『未来』にそれを持っていて喜んでいられるかなーというところを考えられなかったらやめよう、というところまで考えるようになりました。未来といっても漠然とした20年30年先を考えるのではなくて、1年先ぐらいならまあ想像できるだろうと考えた結果、「これはたぶん買っても一年も嬉しいという気持ちは保たないなあ」という自制心が働くようになった気がします。

 

あとよく聞く「今買わなきゃ後悔する!」という考え方もすごくよくわかるんだけど、「じゃあ未来に欲しくなったそのときに買えばよくない?」という考えにシフトされた気がします。限定品は割高にはなっちゃうだろうけどいずれメルカリや中古ショップに出るかもしれないし、もし手に入れられなかったとしても「縁がなかった」「自分が持つにはふさわしくないのだろう」と割り切るのも大事だなあって思うようになりました。このへんは大人になりました(自画自賛

 

手放す

とはいえ顔がついているものを捨てるのは結構つらい(真顔)

けど私と同じようにグッズを集めているフォロワーさんとお話しした際に、「私が持っているもので、他の人の方が大事にしてくれそうならお譲りする」といった価値観を聞かせてもらったことや(自分の感情でなく物の感情を考える的な、若干スピリチュアル精神っぽいけど結構気に入っている)、あと以前に「自分にとって必要で無いものを持ち続けるとメンタルにアヤがつく」的なことを仰っていて、「そうだよな〜」と思って真似しています。

確かにちょっと気に入らないものを持ち続けると知らずにメンタルポイントを消費している気がして、微妙なエピソードがついているもの、たとえば持っていて嬉しい気持ちよりも「これは嫌いな奴も同じものを持っているんだよなー」という感情の方が上回ったら捨てるとか、そんな感じにしていったらそれなりに減らせている気がします。

あと最近読んだ断捨離の本で、「キャラクターグッズとはすべてが『主役になりたいモノ』です。家の主役は自分や家族であり、キャラクターたちではありません」と書いてあって、「あっ、それはそうだ」という気持ちになれて色々捨てられるようになった気がする。

完全余談ですけどこの文章のいいところって、『あなたの人生の主役は〜』って書かれちゃうと「いや、私の人生は**に捧げるためにある」と考える人にとってはとにかく刺さらないと思うんだけど(実際自分もそういう時期があったのでわかる)、「家の主役は〜」という主語にされると、「確かにキャラクターグッズは我が家の主役にはなれないな……」という不思議な納得感を得られたのでありました。自分が家にいて、次にキャラクターグッズが家にあるというのが自然といいますか。そんな至りです。

ちなみに引用元はこちらの本です。シンプルな文体で書かれているのでおすすめ。

あとは色々な人に声をかけたら、意外と「あ、それなら引き取りたい」って言ってくれる人も多いことに気づいたので譲ることも増えた。ありがたい。

 

まとめ

そういったわけで最近はいろいろと物を手放しつつ、空いたスペースをどう使うか考えています。

集中できる部屋に住みたい〜〜〜

C100でサークル参加をやめる話

※今回の内容はコミケのシステムや同人用語がわかる人じゃないとわかりにくい話が多いです。

 

ごあいさつ

C100にサークル側として参加しました! 参加されたみなさま、お疲れ様でした。

以前の日記でも少し書いた通り区切りがいいので、これにてコミケサークル参加の申し込みをやめようと思います。

srknr.hatenablog.com

平成最後のC95にサークルとして初参加してから、初の4日間開催となった夏コミ(C96)と冬コミ(C97)に、GW開催予定だったけど中止になったC98、そしてコロナ禍の影響を喰らったC99とC100の計6回に参加させてもらいました。

思い返せば本当に色々あったと(当方、弱小新規サークルの部類ですが)感慨深くなっています。サークルスペースにお越し下さった方々、ありがとうございました!

 

『サークル参加をやめる』という決意に至った今の気持ちや価値観を、あとで自分が振り返るため(※)に、サークル参加をやめる理由を書いていきます。

※ あとから「どうしてあのときはああいうことをしたんだろう?」と思い返すことが多い性格なので、今の気持ちを未来の自分用にアウトプットしておくことが今後の人生をよりよく生きる上で大事だと思っている

 

 

コミケ引退する理由

1. 創作活動はやめないだろうが、コミケに出展することは負担が大きいと思っている

2. コミケ以外の場で他にやりたい・得たい・優先したいことがある

 

1. 負担が大きい

そもそも創作活動は負担が大きいものですが、コミケにサークル出展するにあたり、

・時間

・費用

・メンタル

・事前準備の手間

以上4点が、自分にとって負担が強くなっていたと思います。

 

*時間について

まず自分のスケジュール管理が下手で、原稿をやるために家のことが後回しになってしまっていた。6回も出させてもらったのにそのあたりに著しい進歩が見られなかった。これ以上続けても満足する結果が出せるどころか、生活を破綻させかねないのでやめた方がいいだろうと思いました。

 

*費用面について

ここは長くなっちゃいます。お金のことなので間違いのないようにきちんと書いておきたい……。

率直に言えば、出展料がだいぶネックになってきました。(ちなみにC95~C100の出展料は1万1千円です。)

高く感じるようになった経緯は、主に分けて3つです。

 

1. もともと高いんじゃないかとうっすら思っていたこと

2. 一般参加者からもお金をとるようになったことと、中止になったC98は一部のみ返金だったこともあり、コミケにおけるお金の流れ方について納得感を得にくくなっていたこと

3. 他のイベントに出てから、この金額では割りが合わないという感覚を得たこと

 

最初(C95の頃)こそ「ビッグサイトを借りるんだし、あれだけ大規模イベントだから出展料もこれぐらいするんだろう」と考えていました。

巷でよく言われている『深夜待機組のせいで警備費用がかかり、その負担が出展者側に加算される』説についても、「自分は出させてもらってる側だし、あれだけの入場者数からいちいち入場料を取るのも難しいだろうから」と、自分の中で納得できていました。(深夜待機組のことを容認しているわけではないです。ただ現象としてそういうことが起きていて、対策しないといけないから費用がかかるという説明に納得していたということです)

その後、C96・C97は四日間開催になることが発表されました。併せてその分ビッグサイトを借りる費用が増えるため、一般参加者からも入場料をとるスタイルに移行することが発表されました。ここで私は「一般参加者からも入場料を取ろうと思えば取れるんだな……」とちょっと思いました。

ただ、まだこのときは「今までより1日多くビッグサイト借りるんだし、その分の負担が出展者側に料金が加算されないなら一般参加者に加算されるのは自然かな」と納得できた自分がいました。

 

しかしC98から、不満が少しずつ溜まっていったと思います。

C98はコロナのあおりを食らって中止になったので、C98の当選サークルはすでに振り込んだ出展料について『繰越』・『寄付』・『返金』のいずれか対応が選べました。

自分はコミケに対して強い思い入れもなく、次回以降もどうなるかわからないので『返金』を選びました。

コミックマーケット98中止に伴う対応の現状について(2020年5月22日現在)

しかしC98に落選したサークルは8千円返金される一方、当選したサークルは5千円しか返ってきませんでした。あれ、どちらも参加できないことには変わりないのに……?

ちなみにこのとき当落発表が3/11。中止発表が3/27でした。この16日の間に仮に『当選者組だけ』が運営に負担をかけさせていたとして、その『何かの経費』がわからない。

ビッグサイトを借りるための手付金をすでにいくらか払っただとか、そういう説明があればまだ納得できたんですけど。うーん。

 

そしてC99は、もっとモヤっとしました。C99からアーリーチケットが導入されるとアナウンスされ、この制度によって徹夜組・始発組が排除されることがわかったからです。じゃあ警備費用がかからなくなるし椅子も一脚になるし安くなるのかなーと安直に考えたんですけど、結局値下げは起きませんでした。

もちろん「C98が開催されずコミケ運営も赤字だろうし、C99では従来のオペレージョンに加えてコロナ対応もあって新オペレーション導入にお金がかかるのだろう」とは思ったんですけど「なんか高いよね? なんでだろう」という気持ちが残ってしまった。費用は高く見積もろうと思えばいくらでもできてしまうし。

更に言えばC99から入場者数も絞られたこともあって、今まで味わえていた『お祭り騒ぎ』という感覚はまったく得られず「今までと同じ値段なのに、つまんないな」という気持ちになっていたと思います。

 

それから決定的だったのが、コミケ以外のよそのイベントに出たことです。安さと体験の快適さに衝撃を受けました。

自分が出たのはオンラインイベントだったんですけど、サークル出展料が550円。さらにオンラインでも人とたくさん交流できたこともあって、「あれ? コミケと同じぐらいの満足感が得られるのに、こんなに負担が小さくて済むんだ!」と感動しました。

元々コミケの出展料について無意識的に不満が溜まっていたところに、他のイベントの安さと快適さを知ってしまったのは本当に大きかったと思います。

 

不満を持ちながら高い出展料を出すのも頒布物に影響が出そうでよくないし、ここはすっぱりと自分の金銭感覚と体験に合わないことを認めようと思いました。

 

*メンタルについて

今回のC100は『今回もコロナ禍の影響で中止するんじゃない? 都知事がなにか言い出したら中止になっちゃうよね? しかも台風も来ていて、同日開催のロッキンは中止になったしな〜、コミケはどうなるのかな〜』という空気感が最後までありました。

外的要因によって中止になること自体に不満はないけれど、『開催されるかどうかわからない』という不安定な状況に置かれると、自身のモチベーションを保ちながら当日を迎えられない性格なので、余計に負担に感じてしまっていたと思います。

 

*事前準備の手間

これは費用面でも少し触れたけど、オンラインイベントがとにかく自分にとって『楽』だった。だから、コミケ準備が手間に感じるようになったんだと思う。

特にC99・C100はコロナ禍の影響を踏まえて、マスクやビニールなど普段以上に準備する物がありました。

で、そういうものを用意している時って「世間はこんなにコロナで大変なのに、コミケにのんきに出てていいのかな」とどうしても考えてしまった。準備の手間自体は些細ながらもそうしたことで通常より疲れていったと思う。

 

2. コミケ以外の場で他にやりたい・得たい・優先したいことがある

コミケは盆と年末に開催されることもあって、出展するたび家族に迷惑をかけてしまっていると思っていました。コミケで何か特別に表現したいこともないので、そろそろ家族を優先したい欲が湧いてきました。

更に言えばオンラインイベントが楽しかったこともあり、ジャンルは絞られちゃうだろうけどそちらの方でも精力的に活動してみたいという気持ちが出てきたことも大きいです。

あと買い物に限ってはコミケ以外で購入できる場が増えたこともあって、そこまで執着しないで済むんだろうと思っている自分がいます。そもそもコミケでそこまで買い物しないからなあ……。

 

おわりに

改めて書き出すと、コミケが心底嫌になったわけではなく、自分のライフスタイルや表現したいこと、私が求めていたことに合わなくなってきたんだな〜と思いました。

ただ評論島は好きなので、またかつての勢いが復活したら一般でふらっと見に行きたいなと思っています。

 

そういや在庫余ってるのでもしよろしければ→

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読書メモ

最近コミケに出展する本作りのため、大量にバラの本を図書館で借りていた。そのついでに目についた適当な本を借りたので、自分用の備忘録としてメモしておきます。

たいした読み方はしていません。

 

〜〜〜

 

小飼弾さんを知ったのはいつだったか。winny騒動の頃には「珍しい名前のおじさんが色々語ってるな」と思っていた記憶があるので、すると10年ぐらい『名前だけはなんとなく知ってるプログラミングやってるおじさん』という認識のままであることに気づいた。そして「そういえばこの人は普段はどういうことを言っている人なんだろう」と思い至って借りた。

2013年発行の本ということで、いまの小飼弾さんとは価値観が多少は変わっているかもしれない。その上で正直に言えば、自分にとってはイマイチな内容の本でした。

内容としては、「ベストセラーよりロングセラーを読め」、「本を批判的に読め」、「愚かな友人といるぐらいなら本を読め」、「書いた本の感想をアウトプットしろ」といった本読みとして求められる姿勢のフレーズが列挙されている。

一つ目の「ベストセラーよりロングセラーを読め」に関してはナニワ金融道の青木先生も同じことを仰っていた。個人的にはそちらの本の方が、読書だけでなく金貸しの思想や、日本経済の問題点、そして金と人間の距離感を踏まえて人間はどう生きるかといった哲学の問題に踏み込んで書いてておもしろかった記憶がある。ちなみに青木先生はドストエフスキー罪と罰が好きで何年も愛読していたそうな。

だいぶ話が逸れた。

あと「愚かな友人と〜」についてもブッダが似たようなことを言ってた。要するにどこかで聞いたことある話ばかりに思えてしまった。

 

ある程度の知識を蓄えて、物事を俯瞰的に捉えることができる人たちの言うことは集約されてひとつの王道になるのは当たり前だろうけど、それが自分にはかなり物足りなかったようです。

本を何も考えずに消費してしまっているという自覚を持っている人には刺さる内容かもしれません。

 

ああ、でも本の中で囲碁棋士天文学者渋川春海という人を扱った冲方丁先生の初期作について紹介していて、それはちょっと今度読んでみたいなと思いました。

 

〜〜〜

「そういやムーミンってちゃんと読んでないな……」と思って借りました。

しかしムーミンほど内容が頭に入ってこなくてつらい本もない。最初は翻訳が悪いのかと思って他の人の翻訳も読んだことがあるんだけど、やっぱりよくわからず、文字がとにかく頭の中を通り抜けるだけという嫌な感覚ばかりが過ぎていく。著者であるトーベヤンソンの育った文化・言語圏の理解が、読み手の自分側に足りていなさすぎるのだと思う。

アニメーションで見ると、テンポや表情がわかるから「ああ、このキャラはこういう立場でこういうことが言いたいのね」というのがまだ楽しめるんだけど。すごいよねムーミンのアニメ。

 

〜〜

児童文学つながりで。

小学生の時にクラスの女子が読んでいたこの表紙が気になって、自分も読み始めたシリーズです。すごく懐かしくなって再読しました。

しかしいま読み返すと児童文学で扱うには重いテーマを随所に扱っているように思う。たとえば母親の育児疲れや、両親の離婚、死別などです。しかもこのシリーズ自体が、松谷みよ子先生自身が母親としてモデルになってる本なので、超リアル。

 

でも小学生の時にはそのあたりに引っ掛かりを覚えなかったのがすごい。いやもしかすると、そのへんのなんとなくの不穏さは感じ取っていたのかもしれないけど、そのへんがうまーくファンタジーで包まれている作品なのです。

たとえばパパとママが不和の間、『くまさん』という大人のくまが、小さいモモちゃんとアカネちゃんの面倒を見てくれる。おいしいスープを作ってくれたり、遊び相手になってくれたり、病気になったらすぐに病院に連れてってくれる万能の『くまさん』です。

たぶん小学生の時の自分は『くまさん』というキャラに対して、『こんなくまさんがいたら楽しいだろうな!』と『くまさん』が姉妹の生活にいつの間にか馴染んでいることについて疑わずに、姉妹二人の楽しそうな生活描写に心を弾ませていた気がするんだけど、大人の自分が今読むと「あ、『くまさん』は松谷みよ子先生が二人の娘のために雇ったシッターだ。そのシッターを『くま』として描いたんだ」と答え合わせができてしまった。

子供が読んでも大人が読んでもおもしろいのはすごいことだ……。

なんかまとまらなくなるのでこのへんで。

 

〜〜

 

なんかおすすめ書籍コーナーに置いてあったから借りたけど、まあいつものひろゆき氏だなという内容だった。

「自分に合わないところで頑張るな」「まず自分を大事にしろ」。それはそうという感じ。たぶんひろゆき氏と同じこと言ってる人はいる気がする。ただひろゆき氏といえば『2chの設立者』、『”それあなたの感想ですよね”』といった実績や言い回しに惹かれる人がそれなりにいて、そんな人がこんなこと言ってるし、あたしも肩の力抜いて生きよう!って思いたい人がたくさんいるから、こういう本が発刊されるんだろうなとは思いました。

でも彼の文章はとにかく読みやすいんですよね。内容が整理されていて、スーッと読める。頭を使わなくて30分ぐらいもすれば一冊読み終える。これがいい読書体験と言えるかどうかはわかりませんが。

レミニセンス現象というのは知らなかった。あとで調べよう。

 

〜〜〜

 

なんだかいっぱい書いたけど、最近いい本に出会ってないなあ……。

日記をそこそこに書いていて気づいたこと

なんだかんだで、はてブに日記を頻繁に書き始めて一ヶ月ぐらい経ちました。

いくつかマインドの変化が起きた気がするので、備忘録として書いていきます。

 

■書いているうちに考え事が収束したケースがある

誰にでもあてはまるかもしれませんが、私は一つのことが気になると隙間時間に悶々と気になりだしてしまう癖があります。それは散歩中であったり料理中であったり、状況を問わないことも多く、せっかくのリラックス時間にも関わらず脳が疲れてしまうということもたびたびありました。

けれども「現在進行形でこういうことが気になっている」「こういう心持ちでいる」ということを断片的にでも書くことによってメタ認知が起きたのか、その問題に関しては解決していてもしていなくても、日記に書く前と比べると圧倒的に気がかりではなくなっていることが多くなっていると気づきました。

一応今までもノートの日記に書いたり、人に話したりといったことはしていたものの、解決あるいは納得しないことも多かったので、これはちょっとした発見でした。

もしかすると私にとってネット上の日記に書いておくという行為は、「いま自分は問題を抱えている」というメタ認知を起こす上で相性がいいのかもしれません。

 

■もしかすると今は限りなく健康なのかもしれないということ

こういった何気ないブログを書けていたり、世間のニュースに対して想いを致すということができているあたり、今の自分は健康なんだろうなあと気づきました。

もちろん100%健康かと言われたら、持病だのホルモンバランスだの不満はあります。けれど確かにこうして気持ちを外部にアウトプットできていること、他者に対して関心が持てている状態であることから、『健康である』といってもいいのかなと思います。

 

実際、自分はアウトプットできていない期間はだいたいメンタルが大変なことに遭っています。

最近の日記にちらっと書いているんですけど、残念なことに勤めていた企業において賃金未払い期間がありました。

さらに同時期、私の作業量は他のチームメンバーによって(と、自分は認識していますが)常に見積もりオーバーになっていて、そのとき私は『どうしてまともに賃金も支払われていないのに、きちんと賃金が支払われているメンバーは、私に賃金が支払われていないことを承知で、期間内に終わらない、あるいは自分の担当でないタスクを振るのだろう』と悩み苦しみ、果ては人権が損なわれているという感覚を常に持ってしまいがちの時期がありました。当時、SNSには時間的な問題ではなく何も書けないしそもそも人と極力喋りたくない状態になっていたと思います。

あと当時のノートの日記や人とのメッセージやりとりを見ていても、一応文章を書いているんですけど、文章になっていないものが多く、どう見てもあかんなという状況なんですよね。説明しようとするとまだその当時のメンタルに引きずられるので、ここでは割愛しますが。

 

そういう最悪な状態を知っているからこそ、いまこうして世の中に対して気持ちが発露できていることは、限りなく健康な状態だからだろうな〜と俯瞰して思いました。

 

■人に見られているかもしれないという意識ゆえに向上心が起きた

ノートの日記は、『自分しか読まない』状態がある程度担保されてしまっているからか、「まあどうせ誰も読まないし」という油断が生じており、結局1日の振り返りに適さないスタイルになっています。(まあ月や年スパンだといい振り返りになるのかもしれないけど……)

けど1日の終わりにこうしてネットに今日考えていたことを書くと、『誰かに読まれるかもしれない』という意識が自然と働くのか、『あれ、今日はたいしたことしてないな。明日はこういうこと頑張ってみよう』という意識づけが以前よりかは起きているように思います。

 

こんなところでしょうかねー?

 

完全に蛇足ですが、今日やったことで満足していることは、図書館で借りてきた法律関係の本とバラ園芸の本を読み終えたことです。

図書館って便利だなあ。

 

動揺

やはり今日はこの話題は避けて通れないという気持ちです。

 

news.yahoo.co.jp

 

安倍晋三元首相が死亡 - Yahoo!ニュース

 

今日はこの一連の速報ニュースを主にTwitter経由で、リアルタイムにずっと眺めていました。

総理を経験した政治家が凶弾によって亡くなられたという事実はいち国民として、とてもつらく感じます。

ニュースで多くの政治家がおっしゃっているように、民主主義に対して暴力で対抗するという形は、戦前の日本の人々が勝ち取ってきた民主主義のあり方を踏まえますと、けして許されるものではないと思いますし、何よりこのような残忍な形でひと一人の生命が絶たれたという事実が、非常につらく感じています。

 

政治家としての安倍晋三氏は功罪いずれも持ち合わせていると思いますが、それでも自分の中において、『安倍総理』という人は日本のために尽力し、ある程度の実績を残し、最後は非常に好意的に退任された人という印象を持っています。

 

ちょっとくだけて書くと安倍さんは、(そこまで政治に興味関心のない国民からみて)外交手腕がすごかったなと現時点では思います。北朝鮮拉致問題に関連する難しい外交問題に挑戦されたり、オリンピック招聘からのリオ閉会式でのご活躍をされたりなど、ここまで諸外国から認められたprime ministerは日本の戦後歴史上では安倍さんぐらいなのじゃなかろうか。「そんな人が……」という動揺がずっと自分の中にあります。

 

さらに率直な気持ちを書くと、『ずっと抱えていた言いようのない不安感を無理やり答え合わせさせられた感覚』を持ったような気持ちを味わっています。

『ずっと抱えていた言いようのない不安感』ですが、ここ数年……あるいはここ数カ月の日本の政治経済は、自分はあまりよくなっていないように感じているのです。

消費税率は2014年に5%から8%に上がり、さらに2019年には10%になり、そして世界情勢ではコロナ禍やウクライナ侵攻といった影響を受け、さらに地球温暖化による猛暑やらなんやら、『もしかして、日本は昔に比べて良くなっていないのでは?』といった不安な気持ちを誰が言わずともなんとなく持っていたような気がしていて、それが本事件によって一部正解であると証明されてしまったような感覚を受けています。

 

だからといってこれまでの日常が劇的に変わるわけでもないと思いますが、暗い影響をしばし引きずりそう。

 

あと懸念しているのは未来の話でしょうか。

今日の話はおそらく日本史に刻まれてしまうと思うのですが(それにしたって2019年から日本は色々起こりすぎで色々あるうちの一つにはなりそう)、その日本史の教科書を読んだ未来の若者が『このときの日本って、どうだったんですか?』『あなたはそのときどう思っていたんですか? 何をしていたんですか?』と無邪気な顔をして質問してきたとして、自分はそのときなんて答えるのだろうと考えると、とんでもない現代に生きているのだなということを嫌でも考えざるを得なくて、さらなる言いようもない不安感に襲われています。

自分は、いま何を思っているのだろう。何をしているんだろう。

いやもちろん自分がやるべき今日のタスクはこなしましたが、それでもなにか、『それも違うのではないか』という疑問がぬぐえません。

事件発生からそろそろ12時間が経ちますが、地に足をつけてうまく考えられない自分がいます。

 

うーんまとまりがないので、今日はこの辺で終わり。